受容
味のしないスープを、詩織は飲み干した。
最後の一滴まで、椀をかたむけて。ぬるくなった湯が喉を落ちていくのを、ゆっくりと感じながら。空になった椀の底に、塩の粒がいくつか、白く沈んで残っていた。
「ごちそうさま」
そう言うと、母は嬉しそうに目を細めた。「おかわりは?」と聞くので、詩織は「お腹いっぱい」と笑った。本当に、胸のあたりが、温かいもので満ちていた。スープのせいではなかった。
洗い物は、詩織がした。母は椅子に腰かけて、その背中をながめていた。蛇口の水音と、椀がふれあう音だけが、台所に響いた。窓の外はもう暗く、ガラスに台所の灯りと、ふたりの姿がうっすら映っていた。
スポンジで椀を洗いながら、詩織はかつてのこの台所を思い出していた。父の帰りが遅い夜、母とふたりで皿を拭いた。母は手を動かしながら、近所の噂や、明日の献立を、とりとめもなく話し続けた。あのおしゃべりが、今は懐かしかった。今の母は、もう昔ほど多くは語らない。語る言葉のいくつかは、もう行き先を見失っている。
「お母さん」
詩織は、背を向けたまま聞いた。
「あの冷蔵庫、ほとんど空っぽだったね」
「そうだったかしら」
「うん。でもね、水が入ってた。お母さんが、ちゃんと向きを揃えて」
母は、少し考えるようにして、それから言った。
「あそこにね、いちばん大切なものが入ってるの」
詩織は、振り向いた。
「いちばん大切なもの?」
「そう。なくしちゃいけないものだから、いつも見えるところに置いておくの。忘れないように」
母が何を指しているのか、詩織には分からなかった。水のことなのか、それとも、もう本人にも分からなくなった何かのことなのか。けれど母は、それを「大切なもの」だと知っていた。中身は思い出せなくても、大切だということだけは、手放さずに握りしめていた。
たぶん、それでいいのだと、詩織は思った。
夜、母を寝かしつけてから、詩織は縁側に出た。携帯を取り出し、弟の番号を呼び出す。今度は、かけた。三コールで、拓也の少しけだるい声が出た。
「ああ、姉ちゃん。母さん、どう」
「うん。……スープ、作ってくれた」
「スープ?」
「具の入ってない、味のしないスープ。でもね」
そこで、言葉に詰まった。電話の向こうで、弟が黙って待っているのが分かった。詩織は夜空を見上げた。父が死んだあの年と、同じ星が出ていた。
「でも、ちゃんと、お母さんのスープだった」
それから、ふたりはこれからのことを話した。施設のこと、お金のこと、誰がどれだけ通えるか。重たい話を、なるべく軽い声で。答えの出ないまま電話を切ったあとも、星はまだそこにあった。
翌朝、詩織が目を覚ますと、台所から物音がした。
母が、また蛇口の前に立っていた。コップに水を注ぎ、それを冷蔵庫に入れ、また取り出し、また注ぎ直していた。同じことを、何度も。詩織は声をかけずに、その様子をしばらく見ていた。
母は、水のペットボトルの向きを、きちんと揃えていた。
「お母さん、おはよう」
「あら、いらっしゃい」
また、いらっしゃい、だった。詩織は今度は、それを訂正しなかった。客でも、娘でも、どちらでもよかった。ただこの人のそばにいられる時間が、まだ少し残っている。それで十分だと思った。
「お母さん。今日は、わたしがスープ作るね」
母は、嬉しそうにうなずいた。
詩織は冷蔵庫を開けた。ペットボトルの水を一本、取り出す。蓋を開けると、かすかに、子どもの頃の台所の匂いがした気がした。鶏ガラと、生姜と、湯気の匂い。たぶん、気のせいだった。
それでも詩織は、その水を鍋に注ぎ、青い火を灯した。
湯気が、ゆっくりと立ちのぼっていった。




