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帰省と違和感

改札を出ると、海の匂いがした。


潮と、煮干しと、どこかの家の夕餉(ゆうげ)の煙が混ざった、子どもの頃から変わらない匂いだ。詩織(しおり)はそれを胸の奥まで吸い込んでから、少しだけ後ろめたくなった。三年ぶりだった。三年ぶりに帰ってきて、まず思ったのが「変わっていない」だなんて、ずいぶん勝手な感想だと思う。変わっていなかったのは町のほうで、自分のほうではない。


実家までの坂道は、記憶より急に感じられた。両側に並ぶ家のいくつかは表札が変わり、いくつかは雨戸を閉ざしたままだった。角の文房具屋はシャッターが下りていて、その前を野良猫が一匹、こちらを見もせずに横切っていった。


門の引き戸を開けると、蝶番(ちょうつがい)が鳴いた。


「お母さん」


返事はなかった。玄関には父の革靴がまだ置いてあって、白い埃をかぶっていた。三年前、父の葬儀のあとに片づけそびれたものが、そのままの位置にある。詩織は靴を脱ぎ、廊下の冷たさを足の裏で確かめながら奥へ進んだ。


台所に、母はいた。


流しの前に立って、蛇口から出る水を、ただ見つめていた。コップも鍋もないのに、水は細く流れ続けている。


「お母さん、ただいま」


母が振り向いた。ゆっくりと、首だけを動かして。そして、ふっと表情がほどけた。


「あら、いらっしゃい」


いらっしゃい。その一言が、詩織の胸の奥を小さく刺した。母は娘を、客として迎えた。けれど次の瞬間には「詩織」と名を呼んで、そうだ、と笑うのだ。「あんた、痩せたんじゃないの」。だから詩織は、聞き間違いだったことにした。蛇口を閉め、母の手を取ると、その手は驚くほど軽かった。骨と皮の感触の上に、湯あがりのような温かさだけが残っていた。


「ご飯、食べていくでしょう」


母がそう言うので、詩織は冷蔵庫を開けた。何か手伝おうと思ったのだ。


開けて、手が止まった。


冷蔵庫の中は、ほとんど空だった。いちばん上の段に、五百ミリリットルのペットボトルの水が三本、きちんと向きを揃えて並んでいる。野菜室には何もない。ドアポケットに、醤油の小瓶と、塩の袋と、見覚えのない瓶詰めがいくつか。ラベルの剥がれたそれらは、中身が何なのかもう分からなかった。卵もない。肉も魚もない。あの、いつも何かしらの煮物が入っていたタッパーの山もない。


かつてこの冷蔵庫は、いつも満ちていた。正月には数の子が、夏には麦茶のポットが場所を取り合い、開けるたびに何かが落ちてきそうなほどだった。父が「お母さんの冷蔵庫はデパートだな」と笑っていた。


詩織は、白く光る庫内灯の下で、しばらく動けなかった。


「お母さん、これ……買い物、行ってる?」


「行ってるわよ。ちゃんと」


母はけろりとして言った。嘘をついている顔ではなかった。本人の中では、たしかに行っているのだろう。冷蔵庫を満たした記憶が、まだそこにあるのだろう。詩織は、それ以上聞けなかった。


リビングの電話台に、メモが貼ってあった。母の字で、震えながらも几帳面(きちょうめん)に。「水道、火、戸じまり」。同じことが三回、繰り返し書かれていた。三枚目の紙の隅には、消しゴムで消した跡の上に、もう一度「拓也に電話」と書かれて、それも線で消されていた。


詩織は携帯を握りしめ、弟の番号を呼び出して、結局かけなかった。何を言えばいいのか分からなかった。


窓の外で、夕陽が縁側の畳をオレンジ色に染めていた。母はその光の中に座って、膝の上で両手を組み、何かを思い出そうとするように、けれど穏やかに、ただ前を見ていた。


「詩織」


「うん」


「お腹、空いたでしょう。スープ、作ってあげる」


母は立ち上がった。その背中が、記憶の中の母より、ずいぶん小さくなっていた。


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