第八話 ざまぁ監査
第八話 ざまぁ監査
ノクス帝国中央監査院。
巨大な円形議場には、重苦しい空気が沈んでいた。
黒大理石の床。高くそびえる柱。壁一面に並ぶ帝国監査官たちの席。その中央に、リュミエール王国代表団だけが追い詰められるように座っている。
汗の臭いがした。
恐怖の臭いだった。
アルベルト王子は苛立ちを隠せず、机を指で叩いている。
その隣ではミレイユが青ざめた顔で扇を握りしめていた。
「遅い……!」
アルベルトが吐き捨てる。
「わざとか、あの女……」
すると議場奥の扉がゆっくり開いた。
視線が一斉に向く。
ヒールの音が静かに響いた。
エレノアだった。
今夜のドレスは深い黒に濃紺を重ねたものだった。胸元は大胆に開き、白い肌が蝋燭の光を受けて冷たく輝いている。背中には繊細な銀刺繍。長い黒髪は片側へ流され、青銀の宝石が耳元で揺れていた。
美しい。
だがそれ以上に、恐ろしかった。
彼女はまるで“裁く側”の顔をしていた。
議場が静まり返る。
エレノアはゆっくり席へ着いた。
その隣には当然のようにルシアンが座る。
黒衣の宰相は脚を組み、冷たい瞳で王国側を眺めていた。
「では始めよう」
低い声が響く。
「リュミエール王国財政監査会議を」
空気がさらに冷えた。
アルベルトは耐えきれず口を開く。
「前置きはいい!」
怒声が議場へ響く。
「エレノア! 帳簿を修正しろ!」
ざわり、と監査官たちがざわめいた。
だがエレノアは瞬き一つしなかった。
「修正?」
「そうだ! お前の仕掛けたロックのせいで王国機能が止まっている!」
「正常動作ですが」
「何?」
「不正支出検知時、自動凍結。契約通りです」
淡々とした声。
アルベルトの顔が赤くなる。
「解除しろと言っている!」
「嫌です」
即答だった。
議場が静まり返る。
ミレイユが目を剥いた。
「ちょ、ちょっとあなた……!」
「私は現在、ノクス帝国所属の財務顧問です」
エレノアは静かに紅茶へ口をつける。
湯気が白く揺れた。
「他国への無償労働義務はありません」
「無償……?」
アルベルトが呆然と繰り返す。
「貴様、自国を救おうとは思わないのか!」
その瞬間。
エレノアの青灰色の瞳が、ゆっくりアルベルトを見た。
静かだった。
静かすぎて、逆に怖かった。
「殿下」
その声は氷みたいに冷えていた。
「私は十年間、無償で救い続けました」
空気が止まる。
「夜会費。騎士団赤字。王族浪費。貴族補助金。港湾負債。融資返済」
エレノアは指を折る。
「全部、私が調整しておりました」
「……」
「ですが殿下は、一度でも私へ給与明細を確認されましたか?」
アルベルトが言葉を失う。
監査官たちが顔を見合わせる。
エレノアは鞄から一冊の帳簿を取り出した。
黒革表紙。
美しく整理された数字。
「こちらが未払い賃金一覧です」
嫌な沈黙が落ちた。
アルベルトが引きつった声を出す。
「み、未払い……?」
「はい」
ぱらり、とページが開かれる。
『深夜労働手当』
『緊急監査対応』
『王族支出調整』
『国家負債再計算』
膨大な記録。
十年分。
監査官の一人が青ざめた。
「これ全部、一人で……?」
「ええ」
エレノアは静かに頷く。
「当時の王国には会計人員が不足しておりましたので」
ルシアンが横で低く笑った。
「不足どころか搾取だろう」
エレノアは肩をすくめる。
「否定はしません」
アルベルトが机を叩いた。
「そんなもの後で払えばいいだろう!」
「遅延利息が発生しております」
「は?」
「当然です」
エレノアは新しい書類を差し出した。
「こちらが計算書になります」
監査官が受け取る。
そして次の瞬間、顔色を変えた。
「……っ」
「どうした!」
アルベルトが奪い取る。
目を走らせた瞬間、顔が凍った。
「な……」
桁がおかしい。
未払い賃金。
複利計算。
遅延損害金。
国家緊急対応加算。
全て合わせた金額。
それは――現在の王国年間予算を超えていた。
「ふざけるなぁっ!!」
アルベルトが叫ぶ。
「こんな額、払えるわけがない!」
「ですので」
エレノアは穏やかに微笑んだ。
「修正は不可能です」
絶句。
議場全体が静まり返る。
ミレイユが震えながら言う。
「こ、こんなの脅迫ですわ……!」
「いいえ」
エレノアは視線を向ける。
「正式請求です」
ミレイユが息を呑む。
その目は優しかった。
優しいのに、逃げ場がなかった。
「契約とは、そういうものでしょう?」
ルシアンが喉で笑う。
「正論だな」
「ルシアン様は黙っていてください」
「面白いので無理だ」
エレノアは小さくため息をついた。
その仕草さえ美しい。
アルベルトは拳を震わせていた。
悔しい。
怒りたい。
だが反論できない。
数字が正しいからだ。
エレノアは続ける。
「そもそも、私は何度も警告しておりました」
『その支出、本当に回収できますの?』
あの日々の声が蘇る。
夜会。
浪費。
宝石。
笑い声。
全部、自分は聞き流した。
「殿下は、“黒字に見える数字”だけをご覧になっていた」
エレノアは静かに言う。
「ですが私は、“いつ破綻するか”を見ていました」
その言葉が胸へ刺さる。
アルベルトはようやく理解した。
自分は王子だった。
だが彼女は。
国家そのものを背負っていた。
「……エレノア」
掠れた声が漏れる。
「戻ってこい」
ミレイユが目を見開く。
議場が静まり返った。
だがエレノアはゆっくり首を傾げる。
「嫌です」
即答だった。
「私は今、とても待遇が良いので」
ルシアンが満足そうに笑う。
「当然だ」
「高級紅茶もありますし」
「そこか?」
「重要です」
小さな笑いが漏れた。
だがアルベルトだけは笑えなかった。
エレノアはもう、自分を見ていない。
あの灰色ドレスの頃のように、後ろを歩いてくれない。
彼女は前へ進んでいる。
自分だけを置き去りにして。




