第七話 経済会議という処刑台
第七話 経済会議という処刑台
ノクス帝国の帝都ノクティスは、その日、世界中の使節と商人で埋め尽くされていた。
初夏の陽光が白い石畳を照らし、街路樹の若葉が風に揺れる。広場には各国の旗がはためき、香辛料や焼き菓子の甘い香りが漂っていた。
帝国主催の国際経済会議。
各国の王族、貴族、大商会の代表が集まり、今後の交易と関税政策について協議する大規模な会議である。
そして今年最大の話題は、ただ一人の女性だった。
「聞いたか? あのエレノア・グレイスが登壇するらしい」
「王国を追放された会計士の令嬢だろう?」
「いや、今や帝国財務顧問だ」
「関税改革を成功させた天才らしいぞ」
ざわめきが会場のあちこちで広がる。
会場となる帝国議事堂は壮麗だった。
高い天井には青と金の壁画が描かれ、大理石の柱が幾重にも並んでいる。巨大なシャンデリアから降り注ぐ光が磨き上げられた床に反射し、まるで湖面のように輝いていた。
貴族たちはそれぞれ豪華な正装に身を包んでいる。
金糸を織り込んだ燕尾服。
宝石で飾られたティアラ。
香水の甘い香り。
だが、その中に以前のような余裕はなかった。
理由は明白だった。
リュミエール王国が崩壊寸前だからだ。
会場の後方で、アルベルト王子は不機嫌そうに椅子へ腰掛けていた。
かつては華やかな金髪を自慢していたが、今は疲労の色が濃い。
高価な礼服を着ているものの、以前のような豪奢さはない。
隣にはミレイユ侯爵令嬢が座っていた。
深紅のドレスに大量の宝石をぶら下げている。
しかし近くで見ると、焦りを隠せていなかった。
「本当に来るのかしら」
ミレイユが小声で言った。
「誰がだ」
「エレノアよ」
アルベルトは鼻で笑った。
「来たところで何だ。所詮は帳簿係だ」
そう言ったものの、胸の奥には妙な不安が渦巻いていた。
あの女が去ってから、何もかもがおかしくなった。
税収は減り、借金は増え、補助金制度は崩壊した。
誰も原因を説明できない。
ただ一つだけ分かる。
エレノアがいなくなってから国は傾いた。
その事実だけだった。
やがて会場が静まり返る。
司会官が壇上へ現れた。
「これより国際経済会議を開始いたします」
拍手が響く。
最初の議題が終わり、いよいよ特別講演の時間となった。
司会官が高らかに告げる。
「帝国財務顧問、エレノア・グレイス殿の登壇です」
その瞬間だった。
会場中の視線が入口へ向く。
ゆっくりと扉が開いた。
誰も息をすることを忘れた。
そこに立っていたのは、一人の女性だった。
黒と青を基調としたイブニングドレス。
夜空を閉じ込めたような深い藍色の生地に、銀糸の刺繍が星のように輝いている。
肩はなめらかに露出し、背中の曲線が美しく見える大胆な仕立てだった。
腰は細く絞られ、裾は波のように広がる。
青銀の宝石が胸元で静かに煌めいていた。
長い黒髪は艶やかに結い上げられ、白磁の肌がさらに際立つ。
青灰色の瞳は真っ直ぐ前を見据えていた。
かつて灰色の事務服と呼ばれた地味な令嬢。
その面影はどこにもない。
「う、嘘だろ……」
誰かが呟いた。
「なんて美しい……」
「同一人物なのか?」
貴族たちが騒然となる。
ミレイユは顔色を失っていた。
自分より美しい女性など存在しないと思っていた。
だが今、目の前にいる女性は次元が違う。
宝石の数ではない。
品格そのものが違うのだ。
エレノアは落ち着いた足取りで壇上へ向かった。
途中、最前列に座るルシアンの前を通る。
黒の礼服を纏った若き宰相は静かに微笑んだ。
「緊張しているか?」
エレノアも小さく笑う。
「数字は嘘をつきませんもの」
「その通りだ」
ルシアンは満足そうに頷いた。
エレノアは演台へ立つ。
会場が静まり返る。
彼女は資料を広げた。
「本日は、帝国関税改革の成果についてご説明いたします」
澄んだ声が広間に響く。
数字が並ぶ。
統計が示される。
交易量。
税収。
利益率。
どれも圧倒的だった。
「関税を一律に上げるのではなく、流通量を分析し最適化しました」
「結果として交易量は増加し、税収は三倍になりました」
ざわめきが広がる。
誰も反論できない。
すべて数字で証明されていた。
アルベルトは拳を握りしめた。
かつて自分が軽蔑した女。
帳簿しか取り柄がないと思っていた女。
その女が今や世界中の前で称賛されている。
しかも自分には理解できない内容で。
講演が終わると、会場は大きな拍手に包まれた。
鳴りやまない拍手。
立ち上がる者までいる。
エレノアは静かに一礼した。
その姿はまるで勝者だった。
いや。
最初から勝者だったのだ。
気付かなかったのは周囲だけだった。
会議後の晩餐会では豪華な料理が並んだ。
仔牛のロースト。
香草をまぶした鴨肉。
白身魚のパイ包み。
蜂蜜をかけた焼きリンゴ。
葡萄酒の芳醇な香りが漂う。
だがアルベルトには何の味もしなかった。
遠くで笑うエレノアが見える。
ルシアンと並び、各国の要人たちに囲まれている。
その姿は眩しかった。
手の届かない場所にいた。
エレノアはふと視線を向けた。
アルベルトと目が合う。
かつて婚約していた男。
かつて自分を追放した男。
しかし今、その姿を見ても心は揺れなかった。
哀れだと思うだけだった。
エレノアは静かにワイングラスを持ち上げた。
ルシアンが尋ねる。
「何を見ていた?」
「過去ですわ」
「未練は?」
エレノアは微笑む。
「帳簿上、完全に償却済みです」
ルシアンは思わず笑った。
「それは何よりだ」
会場の煌びやかな灯りの中。
エレノアはようやく理解していた。
自分は追放されたのではない。
自由になったのだと。
そして今夜。
かつて彼女を笑った者たちは全員知ることになる。
自分たちが捨てたのは、一人の令嬢ではなかった。
国を支えていた唯一の黒字だったのだと。




