第五話 恋は信用取引
第五話 恋は信用取引
ノクス帝国中央財務院は、夜になっても灯りが消えなかった。
高い天井。黒石の壁。無数の帳簿と計算盤。乾いた紙の匂いと、熱い紅茶の香りが混ざり合っている。
エレノアは机に広げられた関税資料へ視線を落としていた。
ペン先が紙を滑る音だけが静かに響く。
「東部海路の関税率を一・二%下げれば、流通量が二倍になります」
向かいに座る財務官たちがざわついた。
「し、しかし税率を下げれば利益が」
「短期ではそうです」
エレノアは淡々と数字を書き込む。
「ですが商人が集まることで市場規模が拡大します。結果として税収は増えます」
「そんな都合よく……」
「都合ではなく計算です」
冷たいほど静かな声だった。
財務官たちは息を呑む。
エレノアはさらに続ける。
「現在の帝国は“高額から少数回収”型です。それでは限界が来ます。“低額を大量回収”型へ移行してください」
「……」
「港湾利用料も見直しを。特に塩商への優遇措置を追加します」
「塩?」
「生活必需品は物流の血液です。血流を止める国家は滅びます」
その瞬間、低い声が響いた。
「素晴らしい」
ルシアンだった。
黒衣のまま扉にもたれ、銀灰色の瞳でエレノアを見つめている。
財務官たちが慌てて立ち上がった。
「宰相閣下!」
「続けろ」
ルシアンは片手を上げた。
エレノアは小さく息を吐き、再び書類へ視線を戻す。
「関税改革後、三ヶ月で帝国利益は二・七倍。半年後には三倍を超えます」
「根拠は」
「こちらです」
エレノアは別紙を差し出した。
物流推移。人口増加。市場流動率。
細かな数字が美しく並んでいる。
ルシアンは無言で読み進めた。
その表情は変わらない。
だが彼の指先が、わずかに机を叩く。
機嫌がいい時の癖だと、最近エレノアは知った。
「……採用する」
財務官たちがどよめく。
「閣下!? こんな大規模改革を一気に!?」
「反発も出ます!」
「出れば潰せ」
ルシアンは平然と言った。
「利益が三倍になるなら問題ない」
エレノアは呆れたように眉を寄せる。
「相変わらず極端ですね」
「君ほどではない」
「私のどこが」
「国家財政を一人で支えていた女が普通なわけあるか」
財務官たちが苦笑した。
だがその目には、もう疑いはない。
彼らは知ってしまったのだ。
この灰色だった女が、どれほど恐ろしく有能なのか。
会議が終わる頃には深夜になっていた。
窓の外には帝都の灯りが広がっている。
エレノアは肩を回した。
「疲れました……」
「紅茶を飲め」
ルシアンが湯気の立つカップを差し出す。
香ばしい茶葉の匂い。
口に含むと、熱が冷えた身体へ広がった。
「……美味しい」
「当然だ。最高級だからな」
「また無駄遣いを」
「投資だ」
即答だった。
エレノアは小さく笑う。
その笑顔を、ルシアンはじっと見ていた。
「何です」
「いや」
彼は低く呟く。
「最初より、よく笑うようになった」
エレノアは少しだけ視線を逸らした。
「帝国は、数字を嫌わないので」
「それだけか?」
「……」
答えられなかった。
沈黙の中、暖炉の薪がぱちりと弾ける。
するとルシアンが立ち上がった。
「来い」
「どこへ?」
「褒美をやる」
「……給金なら既に十分いただいていますが」
「金ではない」
彼に連れられ、エレノアは奥の部屋へ向かった。
扉が開く。
瞬間、柔らかな白が視界いっぱいに広がった。
「……っ」
純白のドレスだった。
絹布は雪のように滑らかで、銀糸の刺繍が月光みたいに淡く輝いている。
そして何より。
背中が大胆に開いていた。
「る、ルシアン様!?」
「気に入らないか」
「背中がありません!」
「あるだろう」
「布がです!」
ルシアンが喉で笑う。
エレノアは顔を赤くした。
「こんなもの着られません!」
「なぜ」
「肌が出すぎです!」
「綺麗だから問題ない」
「問題しかありません!」
エレノアは思わずドレスを抱きしめた。
指先に伝わる絹の感触は驚くほど柔らかい。
高価だとわかる。
「……私に、こんなもの」
「君への褒美だ」
ルシアンは静かに言う。
「関税改革の利益予測は既に市場へ影響を出している。商人たちが帝国へ集まり始めた」
「まだ確定ではありません」
「確定する」
彼は迷いなく言った。
「君の数字は外れない」
その絶対的な信頼に、胸が熱くなる。
エレノアは困ったように笑った。
「買いかぶりです」
「違う」
ルシアンが近づく。
黒革手袋を外した指先が、エレノアの髪へ触れた。
熱い。
その熱が、ゆっくり首筋へ落ちる。
「君は利益より価値がある」
息が止まる。
エレノアは目を見開いた。
ルシアンの瞳は真っ直ぐだった。
いつもの合理主義の色ではない。
もっと危険な熱を孕んでいる。
「……それ、口説いています?」
「さて」
「誤魔化しましたね」
「君が赤くなるから面白い」
「最低です」
だが声が震えた。
ルシアンはそんなエレノアを見下ろし、静かに微笑む。
「恋愛は嫌いか?」
「効率が悪いので」
「信用取引だと思えばいい」
「……は?」
「互いの価値を信じ、長期投資する契約だ」
エレノアは呆然とした後、吹き出した。
「本当にあなたは、何でも経済に変換するのですね」
「君もだろう」
否定できない。
エレノアは白いドレスを見つめた。
昔の自分なら、絶対に着なかった。
目立たない灰色で十分だった。
誰にも見られないように。
誰にも期待されないように。
けれど今。
胸の奥で、何かが少しずつ変わっていく。
「……着たら、笑いませんか」
「保証する」
「本当に?」
「むしろ全員を黙らせる」
ルシアンは低く囁く。
「君はもっと、自分の価値を知るべきだ」
暖炉の火が揺れる。
白い絹が光を弾く。
その夜エレノアは、生まれて初めて“誰かに大切に扱われる”という感覚を知った。




