第四話 消えた黒字
第四話 消えた黒字
王宮財務局は朝から怒号に満ちていた。
「不足です!」
「南部港の支払いが止まっています!」
「第三騎士団の装備費が未納です!」
紙が散る音。机を叩く音。怒鳴り声。汗とインクの臭いが混ざり、薄暗い執務室の空気は重かった。
アルベルト王子は苛立たしげに舌打ちした。
「だからなぜ足りない!」
机を叩く。
高級木材の机に、ワインの染みが広がった。
財務官たちは青ざめ、誰も目を合わせない。
「昨日確認しただろう! 王国財政は黒字だったはずだ!」
沈黙。
誰も答えられない。
アルベルトはますます声を荒げた。
「答えろ!」
年老いた財務長官が震える声を絞り出す。
「そ、それが……」
「何だ」
「黒字では、ありませんでした」
アルベルトの眉がぴくりと動く。
「……は?」
「エレノア嬢が調整していた資金が、消えています」
「だから何だと言っている!」
「その資金が、王国を維持していたのです」
執務室の空気が凍った。
アルベルトは理解できない顔をした。
「維持?」
「借金返済、関税補填、貴族補助金削減による反発対策……すべてです」
「そんなもの、国が勝手に回るだろう!」
その瞬間、財務長官の顔が引きつった。
「回っておりませんでした」
「……何?」
「エレノア嬢が回していたのです」
しん、と静まり返る。
遠くで時計の針だけが響いた。
アルベルトは乾いた唇を舐めた。
「待て……では、あの女がいなくなっただけで、国家予算が崩壊したと?」
「……はい」
その答えに、背筋が冷えた。
アルベルトは椅子へ乱暴に腰を下ろす。
革張りが軋んだ。
「ふざけるな……」
だが机の上には現実しかない。
未払い請求書。
返済催促。
税収不足。
どれも赤い印が押されている。
アルベルトは初めて、自分が見ていた“黒字”が偽物だったことを理解し始めていた。
「殿下!」
扉が勢いよく開いた。
ミレイユだった。
今日も胸元の大きく開いた真紅のドレスを着ている。だが化粧は乱れ、顔色も悪い。
「大変ですわ!」
「何だ、騒がしい」
「南方銀行から通知が……!」
ミレイユが震える手で書類を差し出す。
アルベルトは乱暴に奪い取った。
だが読み進めるうち、顔色が変わる。
「担保資産確認……?」
「どういう意味ですの!? わたくしの宝石が銀行所有扱いになっていますのよ!?」
財務長官が青ざめる。
「ま、まさか……」
「何だ!」
「エレノア嬢の資産運用です……!」
アルベルトが怒鳴る。
「説明しろ!」
「銀行融資の信用維持のため、王族・貴族保有宝石を一時担保登録していたのかと……!」
「聞いてないぞ!」
「我々も初耳です!」
ミレイユが悲鳴を上げた。
「嘘でしょう!? このネックレス、王家から頂いたものですのよ!?」
財務長官は顔面蒼白で呟く。
「名義上は、ですが……」
アルベルトの脳裏に、夜会でのエレノアの声が蘇る。
『南方銀行への信用担保に設定されています』
あの時の静かな瞳。
まるで全部見えていたような声音。
ぞわり、と寒気が走る。
「……あの女」
アルベルトは歯を食いしばった。
「どこまで勝手なことを……!」
「勝手ではありません」
財務長官が思わず反論した。
しまった、という顔になる。
だがもう遅い。
「何だと?」
「エレノア嬢がいなければ、三年前に王国は破綻していました」
アルベルトが立ち上がる。
「貴様、誰に向かって!」
「失礼を承知で申し上げます!」
老財務官は叫んだ。
「夜会費用です! 貴族補助金です! 騎士団増強です! 殿下は使うだけ使い、誰も返済計画を見なかった!」
執務室が静まり返る。
「エレノア嬢は毎夜、一人で帳簿を合わせておられたのです!」
荒い呼吸だけが響く。
アルベルトは拳を握りしめた。
知らなかった。
本当に、何も。
エレノアはいつも静かだった。
文句も言わず、地味な灰色ドレスで、夜会でも端に立っていた。
つまらない女だと思っていた。
愛想も色気もない。
だが。
あの女がいなくなった瞬間、国家が崩れ始めている。
「……殿下」
若い官吏が震える声を出す。
「北方領で暴動が起きています」
「は?」
「補助金停止の影響で、食料価格が急騰しており……」
「そんなの適当に税を下げろ!」
「財源がありません!」
誰かが泣きそうな声を上げた。
「港湾税も止まりました!」
「商人たちが帝国側へ流れています!」
「物流が落ちています!」
怒号が重なる。
アルベルトは頭を押さえた。
うるさい。
なぜこんなことになる。
ただ一人追放しただけだ。
それだけなのに。
「殿下……」
財務長官が震えながら書類を差し出した。
「こちらを」
アルベルトは苛立ちながら受け取る。
そこには細かな文字で、膨大な数字が並んでいた。
「何だこれは」
「エレノア嬢が残していた返済予定表です」
「……」
「今月分から、空白になっています」
アルベルトは黙った。
その空白が妙に恐ろしかった。
まるで王国そのものに穴が空いたみたいだった。
ページの端には、小さな文字が残っている。
『西部港返済調整済』
『騎士団支払延期処理済』
『王家夜会超過分、一時補填』
すべて彼女の字だった。
細く整った筆跡。
静かな文字。
アルベルトの喉がひくりと動く。
「……こんなもの」
彼は無意識に呟く。
「誰も、教えなかったぞ……」
すると財務長官が疲れ切った声で答えた。
「エレノア嬢は、決して功績を口にされませんでした」
窓の外で鐘が鳴る。
灰色の空。
冬の風。
冷え切った執務室の中で、アルベルトは初めて理解した。
王国は、自分たちの力で立っていたのではない。
一人の女が、崩れ落ちる国家を細い指で支えていたのだと。
そしてその指を、自分が振り払ったのだと。




