第三話 深夜色のドレス
第三話 深夜色のドレス
ノクス帝国の王城は、リュミエール王国とはまるで違っていた。
金で飾り立てるのではない。
黒曜石の柱。銀細工の燭台。磨かれた黒い大理石。深い夜を思わせる静かな豪奢。
その空気は冷たく、美しかった。
エレノアは控室で鏡を見つめていた。
指先が、わずかに震えている。
「本当に……これを着るのですか」
鏡の中の自分が信じられなかった。
ミッドナイトブルーのドレス。
深い夜色の絹布は光を吸い込み、動くたび青い艶を流す。胸元は大胆に開き、白い肌が惜しげもなく覗いていた。背中も大きく露出している。細く絞られた腰から、裾は滑らかな曲線を描いて床へ落ちていた。
灰色ドレスしか知らなかった自分とは別人だった。
「苦しいか?」
低い声が背後から響く。
振り返ると、黒礼服のルシアンが立っていた。
漆黒の布地に銀の刺繍。長い黒髪を後ろへ流し、その銀灰色の瞳だけが冷たく光っている。
エレノアは思わず視線を逸らした。
「……胸元が、開きすぎでは」
「似合っている」
「そういう問題ではありません」
ルシアンが近づく。
革手袋を外した彼の指先が、エレノアの肩へ触れた。
びくりと身体が震える。
「肌が冷えているな」
「緊張していますので」
「夜会が怖いか?」
「数字より人間のほうが苦手です」
そう答えると、ルシアンが低く笑った。
「安心しろ。今夜、君に噛みつける人間はいない」
「どうしてそう言い切れるのです」
「君を敵に回した場合の損失を、皆理解しているからだ」
相変わらずこの男は、口説いているのか監査しているのかわからない。
だが不思議と、その言葉は嫌ではなかった。
ルシアンはエレノアの髪をひと房すくう。
「眼鏡は?」
「外しました」
「いい判断だ」
その視線が熱を帯びる。
エレノアは落ち着かず、扇を握りしめた。
「そんなに見ないでください」
「見せつけるためのドレスだろう」
「あなたが勝手に用意したのでしょう」
「君は価値を隠しすぎる」
ルシアンはさらりと言った。
「優秀な人間ほど、自分を安売りする癖がある」
「……買う側の理論ですね」
「そうだ」
迷いなく返され、エレノアは思わず笑ってしまった。
その瞬間、ルシアンの目が細くなる。
「やはり笑ったほうがいい」
「滅多に笑いません」
「知っている」
彼は静かに手を差し出した。
「行こう、エレノア」
巨大な扉が開いた。
瞬間、音楽と熱気が押し寄せる。
夜会会場は眩しかった。
何百もの燭台が輝き、甘い酒と香水の匂いが混ざり合う。絹が擦れる音。グラスの触れ合う高い響き。貴族たちの笑い声。
だがエレノアがルシアンの隣で姿を現した瞬間、その全てが止まった。
静寂。
空気が凍る。
「……誰だ?」
「まさか」
「あれが例の」
「追放令嬢……?」
視線が突き刺さる。
けれど今までとは違う。
嘲笑ではない。
息を呑む気配だった。
エレノアは無意識に背筋を伸ばした。
床に映る自分の姿が揺れる。
深夜色のドレス。
青銀の宝石。
白い肌。
まるで別人だ。
「宰相閣下」
年配の貴族が近づいてきた。
「そちらの女性は……」
「私の財務顧問だ」
ルシアンが即答する。
「エレノア・グレイス」
名前が広がる。
ざわめきが波のように揺れた。
「あのリュミエールの?」
「横領犯では」
「いや違う、王国財政を支えていた女だ」
「まさか本当に引き抜いたのか」
エレノアは微かに眉を寄せた。
聞こえている。
全部。
だがルシアンは平然としていた。
彼はグラスを受け取り、エレノアにも渡す。
「飲め」
「酔います」
「少しは肩の力を抜け」
琥珀色の酒が揺れる。
口に含むと熱が喉を滑った。
強い。
だが香りは甘い。
「美味しい……」
「だろう」
ルシアンは満足そうに笑う。
その時、若い令嬢たちの声が聞こえた。
「信じられないわ……」
「なんて綺麗なの」
「でも胸元が大胆すぎない?」
「宰相閣下の趣味かしら」
エレノアは扇で口元を隠した。
「聞こえています」
「問題あるか?」
「……ありませんけど」
ルシアンはエレノアを見下ろした。
その視線は鋭いのに、どこか甘い。
「今夜の君は、誰より価値がある」
「また値踏みですか」
「事実だ」
その時、音楽が変わった。
ゆるやかな舞曲。
貴族たちが次々と踊り始める。
ルシアンが手を差し出した。
「踊れるか」
「最低限は」
「なら十分だ」
彼に手を引かれ、エレノアは中央へ出る。
視線が集中する。
胸がうるさいほど鳴った。
ルシアンの手が腰へ回る。
熱い。
指先の圧が妙に意識へ残る。
「緊張しているな」
「……あなたのせいです」
「光栄だ」
音楽に合わせ、二人は滑るように踊る。
ルシアンは驚くほど上手かった。
無駄がない。
正確で、美しい。
まるで計算式のような踊り方だった。
「あなた、何でも効率的ですね」
「無駄が嫌いだ」
「恋愛もですか」
「さて」
彼は少しだけ笑った。
エレノアが顔を上げた瞬間、ルシアンが耳元へ顔を寄せる。
低い声。
熱を帯びた吐息。
「数字を扱う指とは思えないほど、美しい」
心臓が跳ねた。
エレノアは思わず足を止めそうになる。
「……っ」
「赤くなった」
「なってません」
「なっている」
悔しいほど愉快そうな声だった。
周囲がざわつく。
「今の見た?」
「宰相閣下があんな顔を」
「嘘でしょう……」
エレノアは顔を背けた。
耳まで熱い。
こんな感覚は初めてだった。
数字を褒められたことはある。
仕事を押し付けられたこともある。
だが、自分自身を見られたことはなかった。
曲が終わる。
ルシアンはエレノアの手を取り、その指先へ軽く口づけた。
周囲から悲鳴のようなどよめきが上がった。
「……ルシアン様」
「何だ」
「今、完全に面白がってますね」
「少しな」
「最低です」
「だが」
彼は静かに言う。
「君はもっと、自分が誰を黙らせる美しさなのか知ったほうがいい」
エレノアは息を呑む。
シャンデリアの光が、ルシアンの銀灰色の瞳に落ちる。
冷たい男だと思っていた。
合理主義の怪物だと。
けれど今、その目には確かな熱があった。
夜会の喧騒の中で。
深夜色のドレスをまとったエレノアは、生まれて初めて、自分が“見られている”ことを知った。




