第二話 追放令嬢と黒衣の宰相
第二話 追放令嬢と黒衣の宰相
雨は夜明け前に止んでいた。
湿った土の匂いが街道に漂い、灰色の空の下、馬車の車輪がぬかるみを重たく削っていく。
エレノアは粗末な幌馬車の隅に座り、薄い毛布を膝にかけていた。
追放令嬢。
昨日まで王国財務局で国家予算を管理していた女に与えられた末路としては、あまりに粗雑だった。
「おい、もう国境だぞ」
御者の男がぶっきらぼうに言った。
「ここから先はノクス帝国領だ。俺たちは入れねえ」
「そう」
エレノアは静かに頷いた。
唇が冷えている。
まともな外套すら持たされず追い出されたせいで、指先の感覚が薄かった。
けれど、不思議と涙は出ない。
むしろ胸の奥には、奇妙な静けさがあった。
もう帳簿を隠さなくていい。
もう誰かの浪費を夜通し埋め続けなくていい。
その安堵のほうが強かった。
馬車を降りると、冷たい風が髪を揺らした。
国境沿いには針葉樹の森が続き、遠くでは川の流れる音がする。
エレノアは小さく息を吐いた。
「これから、どうしましょうね……」
所持金は少ない。
身分証も停止された。
王国に戻る場所はない。
だがその時だった。
遠くから蹄の音が響いた。
規則正しく、重く、速い。
エレノアが顔を上げると、黒馬に乗った騎兵たちが街道を駆けてくるのが見えた。
全員が黒い外套をまとい、銀の紋章を胸につけている。
ノクス帝国軍。
中央の馬だけが異様だった。
漆黒の軍馬。
その背に乗る男は、まるで夜そのもののような黒衣をまとっていた。
長い黒髪。冷えた銀灰色の瞳。
美しいというより、鋭利だ。
剣のような男だった。
騎兵たちが停止し、土埃がふわりと舞う。
男はエレノアを一瞥した。
「……国境検問か?」
低い声だった。
耳に響く。
兵士が答える。
「いえ、追放者のようです」
「追放?」
男の視線が再びエレノアへ向く。
その眼差しには感情がない。
ただ値踏みだけがあった。
「名前は」
「エレノア・グレイス」
その瞬間、男の眉がわずかに動いた。
「グレイス……財務局の?」
「元、ですが」
周囲の空気が少し変わる。
兵士たちがざわめいた。
「まさかあの“灰色の会計令嬢”か」
「王国の金庫番だろ」
男は無言で馬から降りた。
長身だった。
黒革手袋をはめた指先が、冷たい風の中でも妙に綺麗に見える。
「ルシアン・ヴァル・ノクスだ」
エレノアは一瞬だけ目を見開いた。
ノクス帝国宰相。
二十九歳にして帝国経済を立て直した怪物。
数字の鬼。
そう呼ばれる男。
「まさか宰相閣下自ら国境視察とは」
「予算案の確認中だった」
ルシアンはそう言って、部下から分厚い書類束を受け取った。
そのまま歩きながら目を通している。
エレノアは無意識に視線を向けた。
数字が見えた。
関税率。物流量。穀物輸入額。
そして次の瞬間、彼女は反射的に口を開いていた。
「その計算式、破綻しています」
空気が凍る。
兵士たちが一斉にエレノアを見る。
「……何だと?」
ルシアンの声が低くなる。
だがエレノアは止まれなかった。
「東部交易路の関税率を二%上げれば税収増加、とありますが、違います。流通量が下がります」
「根拠は」
「塩輸送です」
エレノアは書類を指差した。
「塩商は利益率が低い。二%上昇で帝国ルートを避けます。結果として流通量が減り、税収が落ちる」
兵士たちがざわつく。
ルシアンは無表情のまま書類へ視線を落とした。
静寂。
風が木々を鳴らす。
やがて彼は口を開いた。
「続けろ」
「代わりに絹織物へ〇・八%の課税追加を。高級品は価格耐性があります。富裕層は買うのをやめません」
「……ほう」
「さらに北方穀物輸入の保険料計算が古いです。今年は川位が下がっている。輸送事故率が増える」
エレノアはそこまで言って、はっとした。
しまった。
口を出しすぎた。
追放された身で何をしているのか。
「失礼しました」
彼女は視線を伏せた。
「もう財務官ではありませんので」
沈黙。
次の瞬間、ルシアンがふっと笑った。
本当に微かだった。
だがその笑みは妙に色気があった。
「面白い女だ」
兵士たちが目を見開く。
宰相が笑った。
それだけで異常事態なのだろう。
ルシアンはエレノアへ近づいた。
革とインクの匂いがした。
彼もまた、机上の貴族ではないのだとわかる。
「王国はお前を追放したのか」
「ええ」
「理由は」
「横領だそうです」
「実際は?」
「国家を黒字にしすぎました」
一瞬。
ルシアンの銀灰色の瞳が細くなる。
そして彼は低く笑った。
「最高だな」
エレノアは目を瞬いた。
「……はい?」
「赤字国家ほど、有能な会計士を嫌う」
ルシアンは当然のように言う。
「事実を突きつけるからだ」
その言葉に、胸の奥が少し熱くなった。
理解された。
初めて。
たった数分で。
ルシアンはエレノアをじっと見つめる。
その視線は男が女を見るものではない。
もっと危険だった。
価値を測る目。
宝石商が原石を見るような目だ。
「エレノア・グレイス」
「はい」
「……君を国家ごと買いたい」
風が吹いた。
黒髪が揺れる。
エレノアは言葉を失った。
「意味が、わかりません」
「簡単だ」
ルシアンは淡々と言う。
「王国は君を捨てた。なら帝国が拾う」
「私は犯罪者扱いですが」
「なお良い」
彼は冷たく微笑む。
「優秀な人材ほど、愚かな国に追放される」
兵士たちが苦笑した。
どうやら帝国では珍しくないらしい。
ルシアンは手を差し出した。
黒革手袋の指先。
「来るか?」
エレノアはその手を見つめた。
怖かった。
この男は危険だ。
甘くない。
優しくもない。
けれど。
数字を理解している。
その一点だけで、王国の誰より信頼できる気がした。
エレノアは静かにその手を取る。
革手袋越しの熱が、思ったより温かかった。
「……雇用条件を伺っても?」
ルシアンが笑う。
「強欲だな」
「会計士ですので」
「いいだろう」
彼はエレノアの手を引き寄せ、馬車へ向かった。
「まずは帝国へ来い。話はそれからだ」
国境の風が吹き抜ける。
エレノアは一度だけ振り返った。
遠くに霞む王国。
自分を捨てた国。
その景色を見つめながら、彼女は小さく呟く。
「これで本当に、終わりですわね」
すると隣でルシアンが言った。
「違うな」
「……え?」
「始まりだ」




