第一話 婚約破棄は赤字決算のあとで
第一話 婚約破棄は赤字決算のあとで
甘い花の香りと、濃厚な酒の匂いが混ざり合い、王宮の大広間はむせ返るような熱気に包まれていた。
巨大なシャンデリアが金色の光を降らせ、磨き抜かれた床には、着飾った貴族たちの姿が映り込む。女たちのドレスは競うように胸元を開き、宝石はいやらしいほど光を散らしていた。
その中央で、エレノア・グレイスだけが場違いだった。
首元まで閉じられた灰色のドレス。飾り気のない布地。黒縁眼鏡。細い指先には、インク染みがうっすら残っている。
「本当に地味ねぇ」
「王子殿下もお気の毒だわ」
「女としての華がまるでないもの」
扇子の陰から漏れる嘲笑を、エレノアは聞こえないふりをした。
慣れていた。
社交界の人間は、数字を嫌う。
正確には、自分たちの浪費を暴く存在を嫌うのだ。
「エレノア」
低く響く声に、広間が静まり返る。
アルベルト王子だった。
金糸を織り込んだ白い礼服をまとい、その隣には、豊かな胸元を大胆に晒したミレイユ侯爵令嬢が寄り添っている。真紅のドレスには大量の宝石。動くたび、耳障りなほど装飾が鳴った。
アルベルトは芝居がかった笑みを浮かべる。
「今宵、皆に伝えねばならぬことがある」
ざわり、と空気が揺れる。
エレノアは静かに視線を上げた。
来る。
そう思った。
「エレノア・グレイスとの婚約を、ここに破棄する!」
歓声にも似たどよめきが上がる。
ミレイユが勝ち誇ったように笑った。
「まあ、殿下……!」
「理由は明白だ。この女は、王家の金に不正に触れていた。国家金庫からの横領、その証拠も上がっている」
瞬間、何人もの貴族が息を呑んだ。
だがエレノアは驚かなかった。
胸の奥に冷たいものが沈むだけだった。
「……横領、ですか」
「白を切るつもりか?」
アルベルトは薄い帳簿を掲げた。
「財務局の金が消えている。説明してもらおうか」
エレノアは、その帳簿を見た瞬間、小さく息を吐いた。
それは、彼女がわざと残していた“表向きの帳簿”だった。
本物ではない。
だが、アルベルトは理解していない。
理解できる頭がない。
「殿下」
エレノアは静かに口を開いた。
「その帳簿だけをご覧になったのですか?」
「何?」
「では、もう隠す必要もありませんね」
アルベルトの眉が寄る。
「……何を言っている」
エレノアはゆっくり眼鏡を外した。
広間の空気が変わる。
隠されていた青灰色の瞳が、シャンデリアの光を受けて冷たく輝いた。
誰かが小さく息を呑む。
ミレイユの笑顔が引きつった。
「私が埋めていた赤字、もう隠しませんわよ?」
一瞬、静寂。
それからアルベルトが鼻で笑った。
「はったりを」
「はったりではありません」
エレノアは淡々と言葉を重ねる。
「西部貿易港の負債。北方領の不作による税収不足。第三騎士団の装備更新費。王族夜会の超過予算。すべて、私が別口座で調整していました」
「な……」
「殿下は予備費だと思っておられたのでしょう? 違います。借金返済の積立です」
ざわざわと貴族たちが騒ぎ始める。
アルベルトの顔が赤くなった。
「黙れ!」
「ちなみに、そのミレイユ様の首飾り」
エレノアは視線を向ける。
巨大な赤石のネックレス。
「南方銀行への信用担保に設定されています。紛失されると違約金が発生しますので、お気をつけください」
ミレイユの顔色が変わった。
「え……?」
「な、何を馬鹿なことを!」
「契約書をご覧になりますか?」
エレノアの静かな声に、ミレイユがアルベルトへ縋りつく。
「殿下っ……!」
アルベルトは狼狽しながら怒鳴った。
「衛兵! この女をつまみ出せ!」
「承知いたしました」
エレノアは深く頭を下げた。
あまりに素直な返答に、逆にアルベルトが戸惑う。
「……何?」
「婚約破棄も、財務局追放も受け入れます」
エレノアは灰色のスカートを整えた。
指先に触れる布は硬く冷たい。
まるで今までの人生そのものだった。
毎夜、灯りの消えた執務室で数字を合わせ続けた。
眠気で霞む目を擦りながら、崩れかけた国家財政を縫い合わせた。
なのに彼らは、一度も見ようとしなかった。
ただ豪華な酒を飲み、踊り、笑い、金を使った。
「最後に一つだけ」
エレノアは振り返る。
その瞳は静かだった。
「帳簿は、嘘をつきません」
ぞくり、と誰かが震えた。
「赤字は、必ず回収されます」
ヒールを鳴らし、エレノアは歩き出す。
背後ではまだ怒号が飛び交っていた。
「待て!」
「どういう意味だ!」
「エレノア!」
だが彼女は止まらなかった。
大広間の扉が開く。
夜気が流れ込み、熱に浮かされた肌を冷やす。
外は静かな雨だった。
石畳に雨粒が落ちる匂いがする。
エレノアは空を見上げた。
胸の奥にあった重い鎖が、少しだけ外れた気がした。
「終わりましたわね……」
雨が灰色のドレスを濡らしていく。
けれど不思議と、寒くはなかった。
王宮の灯りを背に、エレノア・グレイスは静かに歩き出した。
この国が、自分を失った意味を知る日へ向かって。




