表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
1/11

第一話 婚約破棄は赤字決算のあとで

第一話 婚約破棄は赤字決算のあとで


 甘い花の香りと、濃厚な酒の匂いが混ざり合い、王宮の大広間はむせ返るような熱気に包まれていた。


 巨大なシャンデリアが金色の光を降らせ、磨き抜かれた床には、着飾った貴族たちの姿が映り込む。女たちのドレスは競うように胸元を開き、宝石はいやらしいほど光を散らしていた。


 その中央で、エレノア・グレイスだけが場違いだった。


 首元まで閉じられた灰色のドレス。飾り気のない布地。黒縁眼鏡。細い指先には、インク染みがうっすら残っている。


「本当に地味ねぇ」

「王子殿下もお気の毒だわ」

「女としての華がまるでないもの」


 扇子の陰から漏れる嘲笑を、エレノアは聞こえないふりをした。


 慣れていた。


 社交界の人間は、数字を嫌う。


 正確には、自分たちの浪費を暴く存在を嫌うのだ。


「エレノア」


 低く響く声に、広間が静まり返る。


 アルベルト王子だった。


 金糸を織り込んだ白い礼服をまとい、その隣には、豊かな胸元を大胆に晒したミレイユ侯爵令嬢が寄り添っている。真紅のドレスには大量の宝石。動くたび、耳障りなほど装飾が鳴った。


 アルベルトは芝居がかった笑みを浮かべる。


「今宵、皆に伝えねばならぬことがある」


 ざわり、と空気が揺れる。


 エレノアは静かに視線を上げた。


 来る。


 そう思った。


「エレノア・グレイスとの婚約を、ここに破棄する!」


 歓声にも似たどよめきが上がる。


 ミレイユが勝ち誇ったように笑った。


「まあ、殿下……!」


「理由は明白だ。この女は、王家の金に不正に触れていた。国家金庫からの横領、その証拠も上がっている」


 瞬間、何人もの貴族が息を呑んだ。


 だがエレノアは驚かなかった。


 胸の奥に冷たいものが沈むだけだった。


「……横領、ですか」


「白を切るつもりか?」


 アルベルトは薄い帳簿を掲げた。


「財務局の金が消えている。説明してもらおうか」


 エレノアは、その帳簿を見た瞬間、小さく息を吐いた。


 それは、彼女がわざと残していた“表向きの帳簿”だった。


 本物ではない。


 だが、アルベルトは理解していない。


 理解できる頭がない。


「殿下」


 エレノアは静かに口を開いた。


「その帳簿だけをご覧になったのですか?」


「何?」


「では、もう隠す必要もありませんね」


 アルベルトの眉が寄る。


「……何を言っている」


 エレノアはゆっくり眼鏡を外した。


 広間の空気が変わる。


 隠されていた青灰色の瞳が、シャンデリアの光を受けて冷たく輝いた。


 誰かが小さく息を呑む。


 ミレイユの笑顔が引きつった。


「私が埋めていた赤字、もう隠しませんわよ?」


 一瞬、静寂。


 それからアルベルトが鼻で笑った。


「はったりを」


「はったりではありません」


 エレノアは淡々と言葉を重ねる。


「西部貿易港の負債。北方領の不作による税収不足。第三騎士団の装備更新費。王族夜会の超過予算。すべて、私が別口座で調整していました」


「な……」


「殿下は予備費だと思っておられたのでしょう? 違います。借金返済の積立です」


 ざわざわと貴族たちが騒ぎ始める。


 アルベルトの顔が赤くなった。


「黙れ!」


「ちなみに、そのミレイユ様の首飾り」


 エレノアは視線を向ける。


 巨大な赤石のネックレス。


「南方銀行への信用担保に設定されています。紛失されると違約金が発生しますので、お気をつけください」


 ミレイユの顔色が変わった。


「え……?」


「な、何を馬鹿なことを!」


「契約書をご覧になりますか?」


 エレノアの静かな声に、ミレイユがアルベルトへ縋りつく。


「殿下っ……!」


 アルベルトは狼狽しながら怒鳴った。


「衛兵! この女をつまみ出せ!」


「承知いたしました」


 エレノアは深く頭を下げた。


 あまりに素直な返答に、逆にアルベルトが戸惑う。


「……何?」


「婚約破棄も、財務局追放も受け入れます」


 エレノアは灰色のスカートを整えた。


 指先に触れる布は硬く冷たい。


 まるで今までの人生そのものだった。


 毎夜、灯りの消えた執務室で数字を合わせ続けた。


 眠気で霞む目を擦りながら、崩れかけた国家財政を縫い合わせた。


 なのに彼らは、一度も見ようとしなかった。


 ただ豪華な酒を飲み、踊り、笑い、金を使った。


「最後に一つだけ」


 エレノアは振り返る。


 その瞳は静かだった。


「帳簿は、嘘をつきません」


 ぞくり、と誰かが震えた。


「赤字は、必ず回収されます」


 ヒールを鳴らし、エレノアは歩き出す。


 背後ではまだ怒号が飛び交っていた。


「待て!」

「どういう意味だ!」

「エレノア!」


 だが彼女は止まらなかった。


 大広間の扉が開く。


 夜気が流れ込み、熱に浮かされた肌を冷やす。


 外は静かな雨だった。


 石畳に雨粒が落ちる匂いがする。


 エレノアは空を見上げた。


 胸の奥にあった重い鎖が、少しだけ外れた気がした。


「終わりましたわね……」


 雨が灰色のドレスを濡らしていく。


 けれど不思議と、寒くはなかった。


 王宮の灯りを背に、エレノア・グレイスは静かに歩き出した。


 この国が、自分を失った意味を知る日へ向かって。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ