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第23話 その支出は、必ず回収します

第23話 その支出は、必ず回収します


リュミエール国債が暴落した朝、王都の取引所には雨に濡れた人々が押し寄せていた。石段には泥の足跡が重なり、入口脇の鉢では薄桃色のプリムラが雨粒を受けている。売却を求める声と木札を叩く音が、閉ざされた扉の向こうから通りまで響いていた。


独立監査院にも、夜明け前から価格表が届いた。国債は三日前の半値になり、さらに下がり続けている。エレノアは濃紺の実務服に銀章をつけ、真鍮の鐘を一度鳴らしてから報告書を開いた。


机の端には、アルベルトから預かった銀の指輪が証拠箱へ入れられていた。宝石のない台座は朝日を受けても鈍く、かつて王太子の指にあったものとは思えない。窓辺の黄色いプリムラは水を与えすぎたのか、一輪だけ茎を倒していた。


「国債の価格が、また下がりました」


ハンナが菓子箱の筆入れを抱えて入ってきた。焦げ茶色のドレスには雨染みがつき、肩掛けの端から水滴が落ちている。片手には朝食の干し葡萄パンを持っていたが、端を一口かじったまま忘れているらしい。


「グラーツ公爵の商会が、保有国債を一斉に売りに出しました。帝国が保護領から撤退するという噂も流しています」


「撤退は、まだ議案にもなっていません」


「今朝、臨時議会の招集が決まりました」


「噂を先に流し、あとから議会を動かす。順番まで公爵の予定どおりですわね」


ハンナは濡れた肩掛けを椅子へ掛け、干し葡萄パンを机へ置いた。エレノアは無意識に一片ちぎったが、ハンナが手の甲を叩いた。前回の胡桃菓子以来、食べ物の所有権について二人の意見は一致していなかった。


帝国議会では、リュミエール保護領から撤退する案が提出された。国債価格が落ちた今、追加支援を続ければ帝国まで損失を負うという理由だった。撤退すれば鉱山と水源は債権者の管理下へ入り、穀物支援と診療所への薬品供給も止まる。


グラーツ公爵は拘束中だったが、彼の派閥は議席に残っていた。議員たちは、これ以上リュミエールへ金を使うのは底の抜けた桶へ水を注ぐようなものだと主張した。議場の卓上には昼食用の薄いサンドイッチが用意されていたが、胡瓜が一枚しか挟まっていなかった。


「せめてチーズも入れてほしいものですな」


向かいの議員がパンを開いて中を確かめた。胡瓜が端へ寄り、片側には何も挟まっていない。彼は議案より先に厨房への苦情を書き留めた。


「財政難の議論をしながら、昼食の具を増やすのですか」


エレノアが言うと、議員はパンを閉じた。だが食べるのをやめる気はなく、胡瓜のある側から慎重にかじった。議場には酢漬け胡瓜と濡れた毛織物の匂いが漂っていた。


「独立監査院長には、撤退以外の案がおありですかな」


「あります。鉱山、街道、織物産業、農地から得られる将来収入を、二十年分まとめて計画へ入れます」


「二十年だと? 帝国は、そんなに待てない」


「急いで返済するために増税すれば、生産する者が先にいなくなります」


エレノアは、最初に作った返済案を議員へ配った。そこには街道通行料を三倍にし、鉱山収入の七割を返済へ充て、織物へ輸出税をかけると記してある。国債の返済だけを考えれば、五年で債務の半分を減らせる計画だった。


ところが実施前の試算で、別の結果が出ていた。街道通行料を上げれば商人は隣国の道を使い、鉱山収入を取りすぎれば坑道の修繕費がなくなる。織物へ重い税をかければ、職人の賃金が下がり、羊毛を仕入れられなくなる。


「この案を作ったのは、あなたでは?」


「ええ。三日前まで、これが最善だと考えていました」


「自分の案を自分で否定するのか」


「現地で試算を確認した結果、返済を急ぐほど税収が減ると分かりました。ですから撤回します」


議場から笑い声が上がった。グラーツ派の議員が、三日で意見を変える院長など信用できないと叫ぶ。エレノアは革手袋の中で拳を握り、机を叩いた。


「間違った案を、体面のために二十年続けるほうが信用できますの?」


議長が木槌を鳴らした。声を上げたエレノアにも注意が与えられ、議事録へ残ることになった。彼女は一度息を吸い、銀章へ結んだ青い糸を指で直した。


「今の言い方は余計でした。ですが、最初の案が誤りだったことは変わりません」


新しい再建案では、既存国債を二十年満期の復興債へ切り替える。最初の五年は利息を低くし、鉱山と農地の生産基盤へ資金を入れる。六年目以降、増えた鉱山収入、街道通行料、織物輸出、果樹園や葉物野菜の地代から返済額を増やす計画だった。


鉱山では、坑道の支柱と排水設備を先に直す。児童労働を禁じ、成人鉱夫へ安全教育を行い、事故による操業停止を減らす。街道では橋と宿場を修復し、通行料を上げるのではなく、通行する荷車そのものを増やす。


織物産業には、糸車と染料の共同購入制度を設ける。職人が一人ずつ高値で材料を買わずに済むため、布の価格を保ったまま賃金を上げられる。遊休地から得る地代、小松菜、ルッコラ、もやし、豆苗の販売利益も、少額ながら毎年の収入へ加えた。


「青菜で国債を返すつもりか!」


議員席から声が飛んだ。エレノアは資料の一枚を掲げた。そこには、王都二百十一世帯へ支払われた栽培代金と、その世帯が購入した薪、卵、石鹸の税収が記されている。


「青菜だけで返すとは申しません。ですが、小さな収入を笑う方は、小さな未払いも見逃します。その積み重ねが、この赤字を作ったのです」


復興債への切り替えには条件があった。貴族が代々免除されてきた土地税、通行税、相続税を全廃する。王宮、議会、軍、独立監査院を含むすべての予算を、王都と各地方の掲示板へ毎月公開する。


「監査院の予算までですか」


ハンナが傍聴席から小さく尋ねた。菓子箱の蓋には、昼食のサンドイッチから落ちた胡瓜が一枚載っている。持ち帰って夕食のサラダへ入れるつもりらしい。


「もちろんです。真鍮の鐘一個の購入費も載せます」


「それは孤児院から借りたのでは?」


「正式に買い取りました。子供たちは代金で蜂蜜飴を買いました」


「全部ですか」


「半分は共同貯金へ入れました。飴に使った分は十六枚です」


「そこまで議会で話す必要がありますかな」


議員たちから、また笑いが起きた。先ほどまで険しかった空気が少し緩み、エレノアも口元を押さえた。だが免税特権を失う貴族たちは笑わず、復興債に反対すると声をそろえた。


議会は結論を出せず、翌日へ持ち越された。その夜、エレノアは王都の織物工房へ向かった。机上の試算だけでは、二十年計画が本当に実行できるか判断できなかったからである。


工房では、十二台の織機が音を立てていた。羊毛、染料、石鹸、働く者たちの汗の匂いが混じり、窓辺には洗った藍色の布が吊るされている。年配の女職人は、赤い上着の袖を肘まで上げ、糸切れを指先で結んでいた。


「共同購入で材料が一割安くなれば、生産量を増やせますか」


「増やせます。でも注文もないのに布を織れば、倉庫へ積むだけです」


「帝国と周辺国の軍服、学校、病院から長期注文を取ります」


「同じ灰色の布ばかりでは、職人が飽きますよ」


「仕事に飽きるという理由まで、計画へ入れるのですか」


「毎日同じものを二十年織ってみなさい。五年目には、花柄を勝手に入れます」


女職人は笑い、織りかけの灰色の布へ黄色い糸を一本通した。規格違反になるため商品にはできないが、工房の壁へ飾るつもりだという。エレノアはその糸を抜けとは言わず、長期計画へ季節ごとの意匠品も加えた。


翌朝、独立監査院の机には、ルシアンが待っていた。黒い宰相服の肩へ春雨の跡が残り、手には帝国資金を投入する最終決裁書がある。卓上には朝食の卵入りパンと、酸味の強い林檎を煮た小瓶が置かれていた。


「なぜ私の机で朝食を?」


「君が食べずに議会へ行くからだ」


「それは閣下の朝食でしょう」


「二人分ある」


「利益相反監査中に、食事の供与ですか」


「卵入りパン一個のために、監査院長を買収できるとは思っていない」


「林檎煮もついております」


「では、二個で買収されるのか」


エレノアは返事をせず、林檎煮をパンへ載せた。蜂蜜の甘みのあとに、皮の酸味が残る。ルシアンは自分のパンから胡桃だけを抜き、皿の端へ並べていた。


「食べないなら、なぜ胡桃パンを選ぶのです?」


「君が食べる」


「最初から私へ渡してくださいませ」


「取り出すのが楽しい」


「閣下には、豆苗の水替えをお勧めしますわ」


朝食を終えると、ルシアンは最終決裁書をエレノアの前へ置いた。帝国が復興債の初回発行分を買い取り、鉱山、街道、織物工房、農地改良へ資金を出す内容だった。額は金貨五百万枚に上る。


エレノアは紙の端を三度叩き、真鍮の鐘を一度鳴らした。利率、返済期間、担保、免税特権の全廃、予算公開条項を一つずつ読む。最後まで確認してから、ルシアンを見た。


「その支出、本当に回収できますの?」


ルシアンは胸元から署名用のペンを取り、エレノアの手へ置いた。黒い軸には使用による細かな傷があり、金のペン先だけが新しく交換されている。彼が宰相に就任した日から使っている品だった。


「二十年後の税収で回収する。だが、君を信じた分については、回収を求めない」


「それでは国家会計として失格ですわ」


「これは私個人の勘定だ」


「私への投資という意味なら、お断りします」


「投資ではない。君が失敗しても、責任を半分持つという意味だ」


「帝国宰相が、監査院長と損失を分けてはいけません」


「では、ルシアン個人として持つ」


エレノアはペンを握ったまま、彼を見た。窓の外では春雨が止み、プリムラの花に残った水滴が光っている。言い返す言葉を探しているうちに、ルシアンが皿から最後の胡桃を一つ取り、彼女のパンへ載せた。


「勝手に載せないでくださいませ」


「君が食べると言った」


「今は契約の話です」


「胡桃一つを受け取れない者が、金貨五百万枚を扱えるのか」


「別会計ですわ!」


エレノアは声を上げ、隣室のハンナが扉から顔を出した。彼女は菓子箱を抱え、何か面白いことが起きたのかと尋ねた。エレノアは何もないと答え、胡桃を口へ入れてから決裁書へ署名した。


帝国の買い取りが公表されると、復興債の窓口には王都の人々が並んだ。最低購入額は銅貨十枚に下げられ、農民や職人でも買えるようになっていた。利息は現金で受け取るほか、通行料、診療費、学校費用へ充てることも選べた。


帽子に赤い毛糸の花をつけた少女の母親は、小松菜を売って貯めた銅貨で一口分を買った。仕立屋の妻、パン屋、鉱夫、孤児院の職員も、小さな復興債証書を受け取った。紙には鉱山でも王冠でもなく、畑、橋、織機、大鍋の絵が印刷されていた。


周辺国の商人と年金基金も、予算公開条項を評価して購入へ参加した。誰が何へ使い、いつ返すかが公表されるため、以前の国債より利率が低くても買い手がついた。暴落していた国債価格は下げ止まり、グラーツ公爵が買い集めた旧国債は復興債への切り替え対象から外された。


公爵の商会は、価格がさらに下がると見込んで旧国債を売り続けていた。ところが復興債に買い手が集まると、売った分だけ損失を抱えた。鉱山、水源、穀倉地帯を差し押さえる計画も、担保条項の不正が認定されて無効になった。


夕方、共同炊事場では復興債の初回発行を祝って、豆と小松菜のスープが配られた。豪華な肉料理ではなく、いつもの木椀と錫の柄杓だった。料理長は特別だと言い、各椀へ薄切りの卵を一枚ずつ載せた。


「一枚だけですの?」


エレノアが尋ねると、料理長は柄杓を鍋へ戻した。前掛けには小松菜の葉が一枚貼りつき、本人はまだ気づいていない。帽子の少女が指で教えると、料理長は葉を摘み、そのまま自分の椀へ入れた。


「二枚載せれば、明日の分がなくなります」


「復興債は売れました」


「売れた日に卵を全部食べる国は、二十年持ちませんぞ」


「それも予算公開へ書きましょうか」


「卵の枚数まで?」


「国民が買った債券ですもの」


少女の母親が受け取った復興債証書を、汚れないよう布へ包んでいた。エレノアは頼んで一度見せてもらい、裏面へ小さく記された購入番号を確かめた。最初の一般購入者へ発行された、第三十七号だった。


母親は記念に持っていてほしいと、証書へついていた小さな半券をエレノアへ渡した。半券には、大鍋と一本の柄杓が印刷されている。エレノアはそれを赤い糸綴じの帳面へ挟んだ。


夜、独立監査院へ戻ると、ルシアンの古い署名用ペンが机へ残されていた。彼は返してほしければ、自分で取りに来ると言って置いていったらしい。エレノアはペンを引き出しへ入れず、真鍮の鐘の隣へ置いた。


二十年計画の最初の頁には、まだ空欄が多かった。鉱山事故が起きれば収入は減り、凶作になれば農地の地代も入らない。それでも、返済日だけを見る計画より、人が働き続けられる予定が書かれていた。


エレノアは復興債の半券を指で押さえ、紙の端を三度叩いた。最初の一回は今日の支出、二回目は二十年後の収入、三回目は、その間に食べる一杯のスープを確かめるためだった。真鍮の鐘の隣で、ルシアンの黒いペンが春の月明かりを受けて静かに光っていた。


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