第22話 最後の債権者
第22話 最後の債権者
独立監査院の最初の朝、エレノアは自分の机が大きすぎることに気づいた。黒檀の天板は両腕を広げても端へ届かず、中央へ置いた真鍮の鐘がひどく小さく見える。窓辺には鉢植えの黄色いプリムラが咲き、その隣では昨夜の薄荷茶がカップの底で冷えていた。
エレノアは濃灰色のドレスに、初代院長の銀章をつけていた。銀章には天秤と開いた帳簿が刻まれ、ミレイユから返された青い糸が細く結ばれている。黒と青銀のマーメイドドレスは衣装棚へ戻し、今日は袖口を汚してもよい服を選んだ。
「院長の机なのに、椅子が低すぎますわ」
隣の机で資料を分けていた初老の監査官が、菓子箱の筆入れから定規を出した。公開試験で隣に座っていた羊毛商の会計係で、名をハンナという。彼女は灰色の髪を三つ編みにし、焦げ茶色のドレスへ蜂蜜色の肩掛けを羽織っていた。
「机が高いのではありません。院長が小柄なのです」
「私の身長は平均です」
「どこの平均でしょう」
「リュミエール王国の成人女性です」
「では、椅子の上へ帳簿を一冊置きましょう。旧王国の借金も、初めて役に立ちます」
ハンナは分厚い旧国債台帳を椅子へ載せた。エレノアが座ると、今度は少し高くなりすぎたが、本人は何も言わなかった。菓子箱の中に本物の胡桃菓子が一つ入っているのを見つけ、そちらへ手を伸ばしたからである。
「それは私のおやつです」
「筆箱ではなかったのですか」
「院長が毎日、中を覗くので入れておきました」
「では、半分にしましょう」
「勝手に共同受領にしないでください」
二人が胡桃菓子を分けていると、国債取引所から緊急報告が届いた。リュミエール国債の名義が、過去二か月で一つの投資組合へ集中しているという。表向きは帝都の穀物商、織物商、海運会社が別々に購入していたが、代金はすべて同じ外国銀行から送られていた。
エレノアは真鍮の鐘を一度鳴らし、報告書の紙端を三度叩いた。所有者の名義だけでなく、購入資金の出所、代理人、担保条項を調べるよう命じる。ハンナは残った胡桃菓子を口へ入れ、砂糖のついた指で紙に触れようとして、エレノアに手の甲を叩かれた。
調査すると、三つの商会はいずれも設立から半年以内で、同じ建物の二階に事務所を置いていた。代表者は異なっていたが、契約書の筆跡はすべて同じである。さらに、外国銀行へ資金を預けた人物の代理人として、グラーツ公爵の秘書の名が残っていた。
買い集められた国債には、通常とは異なる担保条項がついていた。利息の支払いが一度でも遅れた場合、西部鉱山、北部の穀倉地帯、王都へ水を引く三本の水源を債権者が管理できる。返済猶予も再交渉も認めない内容だった。
「水源まで担保に入っています」
ハンナが眉を寄せた。彼女の机には、昼食の林檎とチーズが紙に包まれている。林檎の皮へ指で顔を描き、目と口をつけていた。
「水を止めれば、王都は三日も持ちません。穀倉地帯を押さえれば、共同炊事場へ豆も小麦も届かなくなります」
「利益を得るためだけではなさそうですね」
「返済不能にして、土地と民をまとめて手に入れるつもりです」
エレノアは国債の購入日を一覧にした。偽りの黒字報告書が公表された直後には買いを止め、本当の赤字が発表されて価格が下がると、一気に買い増している。偽報告書も、その訂正後に起きる混乱も、グラーツ公爵にとっては予定の一部だった。
同じ日の午後、帳簿修復作業所から面会申請が届いた。申請者の名は、アルベルト・ド・リュミエール。用件欄には「国債と王政復古に関する密約」とだけ書かれていた。
「罠ですわ」
エレノアは申請書を机へ置いた。アルベルトは追い詰められると、自分の責任を他人へ移してきた。今度も減刑を得るため、グラーツ公爵の名を使っているのだと考えた。
「会わないのですか」
「証拠があるなら、司法局へ提出すればよいでしょう」
「院長へ直接渡したいそうです」
「私が婚約者だったことを利用するつもりです」
ハンナは顔の描かれた林檎をエレノアへ向けた。林檎の口は少し曲がり、何か言いたげに見える。彼女は小刀を入れる前に、その顔へ謝っていた。
「お腹が空いているときに決めると、言葉が尖りますよ」
「空腹ではありません」
「胡桃菓子を半分食べただけです」
「それは、あなたが残りを食べたからですわ」
エレノアは面会を翌日へ延ばした。だが夕方、作業所から二度目の連絡が届いた。アルベルトの寝台が荒らされ、枕の中へ隠していた紙が奪われかけたという。
彼の夕食にも異臭があり、食べる前に同室の囚人が気づいた。皿に入っていたのは豆と大麦の煮込みだったが、底から苦い薬草の粉が見つかった。アルベルトは別室へ移され、帝国衛兵が警護していた。
エレノアは椅子から立ち上がった。最初の申請を罠だと決めつけ、面会を延ばした自分の判断で、証人を危険へ置いた可能性がある。銀章へ結んだ青い糸が、立ち上がった拍子に揺れた。
「今から作業所へ行きます」
「夕食は?」
「馬車で食べます」
「そう言って、いつも食べません」
ハンナは林檎を四つに切り、チーズと一緒に紙へ包んだ。顔を描かれていた部分はエレノアの包みへ入れられた。馬車の中で林檎を取り出すと、皮に描かれた片目だけがこちらを見ていた。
帳簿修復作業所は、王都北部の旧兵舎にあった。石造りの建物には湿った紙と薪の煙の匂いが染みつき、廊下には洗った囚人服が並んで干されている。窓辺の鉢では、白い雛菊が一輪だけ咲いていた。
アルベルトは簡素な面会室で待っていた。茶色い囚人服の袖を肘まで上げ、両手の指へ青黒いインクをつけている。卓上には冷めた大麦茶と、端の欠けた木皿が置かれていた。
「随分と遅かったな」
「最初の申請を信用しませんでした」
「正直だな」
「あなたが過去にしたことを考えれば、当然でしょう」
「そこで謝らないところも、相変わらずだ」
エレノアは腹を立て、椅子を引く音を必要以上に大きくした。アルベルトは以前なら、その態度だけで不敬だと怒鳴ったはずだった。今日は木皿の欠けた部分を指で撫で、何も言わなかった。
「証拠を見せてください」
「先に一つ聞きたい。共同炊事場のスープは、今も出しているのか」
「出しています。昨日は豆苗と卵を入れました」
「豆苗は、あの青臭い葉か」
「嫌なら召し上がらなくて結構です」
「嫌とは言っていない。帳簿修復作業所でも育てている。水替えの鐘が朝早すぎる」
「囚人の睡眠事情まで、私の責任ではありませんわ」
「豆を育て始めたのは、お前だろう」
二人はしばらく、もやしの水替えと大麦粥の固さについて話した。問題の解決には何の役にも立たない会話だったが、アルベルトが以前より少し痩せ、食事を残さなくなったことが分かった。彼の囚人服の胸には、繕った跡が三つもあった。
やがてアルベルトは、上着の裏地を開いた。縫い目から薄い紙を取り出し、卓上へ置く。紙は汗を吸って柔らかくなり、四隅に針穴が残っていた。
「グラーツ公爵の使者が持ってきた密約書だ。私を王位へ戻すと書いてある」
「見返りは?」
「即位後、国債の返済不能を宣言する。鉱山、水源、穀倉地帯を債権者へ渡し、公爵を摂政に任命する」
「王へ戻るために、国の心臓を渡せということですか」
「王宮と王冠だけは、私へ残すそうだ」
アルベルトは鼻で笑った。以前の彼なら、王冠さえ戻れば領地の行方など気にしなかっただろう。エレノアは密約書を開き、紙の端を三度叩いた。
添付された予算案には、王政復古後の歳入計画が書かれていた。小麦税を現在の四倍にし、農民の移動を禁止する。鉱山では十歳以上の子供を雇用でき、賃金の半分を王室復興税として徴収する内容だった。
「児童労働を合法化するつもりですの?」
「子供なら坑道の狭い穴へ入れるそうだ」
「この予算案を見て、それでも公爵と会ったのですか!」
エレノアは机を叩いた。大麦茶のカップが揺れ、薄茶色の水が密約書の端へこぼれた。アルベルトは布で紙を押さえ、彼女の顔を見た。
「会わなければ、密約書を手に入れられなかった」
「署名寸前まで話を進めています!」
「私が署名すると思ったのか」
「あなたなら、しかねません!」
言ったあと、面会室が静かになった。廊下の向こうで、囚人たちが夕食の食器を片づける音がする。窓辺の雛菊が、開いた窓から入る風で揺れた。
アルベルトは怒鳴らなかった。囚人服のポケットから、小さな黒パンを取り出して半分に割った。一方をエレノアへ差し出したが、彼女は受け取らなかった。
「以前の私なら、署名しただろう」
「今は違うと?」
「違わなければ、あの女に三年間も帳簿を直させた意味がない」
「あの女とは、私のことですか」
「ほかに誰がいる」
「本人を前にした呼び方ではありませんわ」
「元婚約者を何と呼べばいい。エレノアと呼べば、お前の宰相が怖い顔をする」
「ルシアンは私の所有者ではありません」
「相変わらず面倒だな」
アルベルトは黒パンを自分で食べた。以前なら硬いと投げ出したはずなのに、水へ浸して最後まで噛んだ。エレノアはその手元を見ながら、先ほどの言葉を考え直した。
「署名すると思った、という発言は訂正します。密約書を入手するために危険を冒したことも、記録します」
「礼は言わないのか」
「罪が消えるわけではありません」
「それでいい。消されたら、帳簿を直した時間まで無駄になる」
アルベルトは密約書だけでなく、使者との面会日時、部屋へ入った衛兵、渡された金貨の番号まで書いた記録を差し出した。金貨にはグラーツ公爵家の金庫印が刻まれており、証拠として別室へ保管されているという。
最後に、彼は右手の小指から古い指輪を外した。かつて王太子の印として使っていた銀の指輪だったが、宝石はすでに没収され、台座だけが残っている。内側には、密約書を受け取った日付と使者の頭文字が針で刻まれていた。
「これも持っていけ。使者は、この指輪を見せれば協力者だと認めると言った」
「証拠品として預かります」
「返さなくていい」
「証拠保管の終了後は、所有者へ返却されます」
「売ってスープ代にしろ」
「宝石のない銀の指輪で、何杯作れると思っていますの?」
「三杯くらいか」
「今日の価格なら四杯半です」
アルベルトは短く笑った。エレノアは指輪を小さな布袋へ入れ、密約書と共に封印した。真鍮の鐘を一度鳴らすと、廊下で待っていた独立監査官と司法官が入室した。
翌朝、グラーツ公爵の国債購入先と王政復古計画に関する一斉捜査が始まった。三つの商会、外国銀行の代理事務所、公爵邸の書庫から、国債証書と担保一覧が押収された。西部鉱山、水源、穀倉地帯には保全命令が出され、勝手な名義変更ができなくなった。
新聞は、アルベルトが王位復帰の密約を拒んだと報じた。しかし彼の罪が帳消しになったとは書かなかった。帳簿修復作業は続き、密約書の提出は刑の見直しに関する資料として扱われた。
エレノアの机には、宝石を失った銀の指輪が証拠箱に入れて置かれた。王太子の印だった台座には、もう紋章が残っていない。彼女はその隣へ、国債の担保条項とグラーツ公爵の資金経路を並べた。
窓辺のプリムラへ水をやっていると、ハンナが菓子箱を持ってきた。今日は本物の蜂蜜入り胡桃菓子が三つ入っている。捜査が始まった祝いだと言うが、すでに一つはハンナの歯形がついていた。
「一つ、味見をしました」
「半分ではなく?」
「一個食べないと、傷んでいるか分からないでしょう」
「残り二つは、共同受領ですわね」
「院長は、すぐに人のおやつを国有化しますね」
エレノアは菓子を一つ取り、紙の端を三度叩いた。公爵の国債を無効にするだけでは、リュミエールの借金そのものは消えない。国債の価格は暴落し、市場では帝国が保護領から撤退するという噂まで流れ始めていた。
銀の指輪は、春の日差しを受けても鈍い色のままだった。エレノアは証拠箱の蓋を閉じ、真鍮の鐘を一度鳴らした。次に調べるべきものは最後の債権者ではなく、国を買い支える次の債権者だった。




