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第24話 人生最大の黒字、その訂正

第24話 人生最大の黒字、その訂正


一年後の春、リュミエール保護領の中央広場には、朝から長い列ができていた。パンや復興債を買う列ではなく、前年度の決算書を受け取るための列だった。掲示板の脇では白と薄紫のライラックが咲き、甘い香りが焼きたての黒パンと混ざっていた。


公開された決算書の最後には、金貨八万七千枚の赤字と記されていた。前年より大幅に減っていたが、黒字には届いていない。表紙には飾りも王家の紋章もなく、収入、支出、借入金、返済期限が読める大きさの文字で印刷されていた。


エレノアは深いネイビーの実務ドレスに銀章をつけ、掲示板の前に立っていた。腰には赤い糸綴じの帳面を下げ、真鍮の鐘は独立監査院の机へ置いてきた。青銀の髪留めだけが春の日差しを受け、黒髪の中で細く光っている。


「赤字のままなのに、なぜ祝いの花を飾っているんだ?」


決算書を受け取った老人が、ライラックを指した。去年、壊れたパン屋の前で小麦粉を刷毛で集めていた男だった。今日は両足に同じ色の靴を履き、腕には小さなパン籠を抱えている。


「花は花屋が寄贈してくださいました。決算書の印刷費には入っておりません」


「そういう意味で聞いたんじゃない」


「では、どういう意味ですの?」


「国がまだ赤字なのに、皆が明るい顔をしている理由だよ」


エレノアは決算書の五頁目を開いた。小麦備蓄は昨年の十二日分から五十三日分へ増え、閉鎖寸前だった診療所は三か所とも再開している。壊れていた橋は七本修復され、冬に止まっていた水路からは、雪解け水が畑へ流れていた。


「赤字を隠さず、何へ使ったか見えるようになったからでしょう」


「去年までなら、赤字の紙を見せた者が牢へ入れられた」


「今年からは、隠した者が調査を受けます」


「それなら、花くらい飾ってもいいか」


老人はパン籠から、小さな丸パンを一つ差し出した。表面には小松菜の種が焼きついている。エレノアが代金を払おうとすると、老人は去年集めた床の小麦粉より安い礼だから受け取れと言い、列の後ろへ戻っていった。


広場の端には、共同炊事場の大鍋が置かれていた。炊事場は毎日ではなく、週に二度だけ開くようになった。働き口と家庭の収入が増え、自分で食事を用意できる者が多くなったためである。


老料理長は錫の柄杓で、豆、玉葱、小松菜、薄切り肉のスープを配っていた。白い前掛けにはブルーベリーの果汁が紫色の点を作り、本人は何度指摘されても染みを落とすのを諦めている。鍋の隣には、酸味の強い林檎を蜂蜜で煮た小瓶が並んでいた。


「肉が入っていますわね」


エレノアが鍋を覗くと、料理長は柄杓で底を探った。肉より豆のほうが多かったが、一人の椀へ二切れは入る。去年は燻製肉の欠片を四百人で分けていた。


「今日は決算書の公開祝いです。卵もありますぞ」


「一人一枚ですか」


「二枚です」


「国庫は大丈夫でしょうか」


「卵二枚で破綻するようなら、監査院長を解任します」


料理長はエレノアの椀へ、薄切りの卵を三枚入れた。身内への利益供与だと指摘すると、一枚は味見用だと答えた。後ろに並んでいた帽子の少女が、自分にも味見が必要だと木椀を差し出した。


少女の赤い毛糸の帽子は、もう頭へ入らなくなっていた。今日は白いブラウスに緑のスカートを着て、帽子を鞄へ結びつけている。孤児院にできた学級で読み書きと計算を習い、決算書の「小麦」という文字を自分で読めるようになっていた。


「八万七千枚の赤字って、卵を何枚買えるの?」


「一枚銅貨一枚としても、簡単には換算できません。金貨と銅貨では桁が――」


「卵で教えて」


「約八百七十万枚です」


少女は自分の椀に載った卵を見下ろした。しばらく考え、二枚のうち一枚を弟の椀へ移した。弟はすでに自分の二枚を食べ終えていたので、何も考えず口へ入れた。


「今のは、国の赤字と関係ありませんわよ」


「弟が見てたから」


「でしたら、最初からそう言ってくださいませ」


「エレノア様だって、卵の枚数で国を考えたでしょう?」


料理長が声を立てて笑った。エレノアは言い返そうとして、去年の自分も一杯のスープと一回の夜会を比べたことを思い出した。少女の頭を撫でようとしたが、髪にスープの匂いがつきそうだと言われ、手を引っ込めた。


午後、エレノアは修復された石橋を渡り、王都の診療所へ向かった。橋の欄干には新しい木材が使われ、馬車が通るたびに低い振動が足裏へ伝わる。橋のたもとには黄色い菜の花が咲き、その向こうで洗濯物が春風に膨らんでいた。


診療所の棚には、包帯、熱冷まし、消毒酒が決められた量だけ並んでいた。窓辺の欠けた青いカップには、野菊ではなくブルーベリーの白い花が一枝挿してある。最初に会った看護師は、薄青色の前掛けで薬瓶を拭いていた。


「薬が余っておりますわ」


エレノアは在庫表を見て眉を寄せた。予定量より熱冷ましが十二本多い。この一年で在庫の水増しを何度も見つけたため、反射的に銀章へ手を置いた。


「購入数をごまかしましたの?」


「違います。先月、熱を出す子供が予想より少なかったのです」


「なぜです?」


「孤児院の寝室へ暖房が入り、毛布も増えました。食事も一日二回から三回になっています」


看護師は余った薬を隣村の診療所へ移す予定表を見せた。エレノアは不正を疑ったことを謝り、監査記録へ自分の早合点も書き加えた。看護師は気にしていないと言いながら、薬棚の上へ置いた干し杏を三つも口へ入れた。


「監査院長も、一つ召し上がりますか」


「甘すぎません?」


「薬よりは甘いです」


「比較の相手が間違っていますわ」


「では、消毒酒と比べましょうか」


エレノアは干し杏を一つ受け取り、噛みながら診療所を出た。ねっとりした甘みのあとに、果皮の酸味が残る。治療費が増えなかった理由が薬の不足ではなく、病気になる者が減ったためだと分かり、彼女は帳面の余白へ小さく丸をつけた。


同じころ、グラーツ公爵は財産を没収され、帳簿修復作業所の奥で架空取引を一枚ずつ検証していた。薔薇の香油も金糸の上着もなく、茶色い作業服の袖へインクをつけている。彼の机には、かつて自分が作らせた偽報告書が山積みになっていた。


向かいの机では、アルベルトが地方税務所へ移るための荷物をまとめていた。王族の身分は失い、配属先では窓口係から始める。荷物は囚人服二組、黒パンを入れる木箱、帳簿用のペン三本だけだった。


「元王太子へ、農民の納税相談をさせるのか」


グラーツ公爵が吐き捨てると、アルベルトはペン先を布で拭いた。机の端には、朝食の大麦粥が少し残っている。冷えて固まっていたが、彼は匙で集めて最後まで食べた。


「税を払ったことのない者が、徴収する側に立つ。ちょうどよい罰だろう」


「王位へ戻れる機会を、自分で捨てた愚か者め」


「王冠を得るために水源を売るほど、もう腹は減っていない」


「エレノアに飼い慣らされたか」


「違う。三年間読まなかった帳簿を、ようやく読んだだけだ」


アルベルトは荷物を抱え、作業所を出た。廊下には洗った作業服が並び、もやしの水替えを知らせる真鍮の鐘が鳴っている。彼は足を止めず、地方税務所へ向かう荷馬車へ乗った。


宝飾商街では、ミレイユが鑑定助手として働いていた。生成りの服に青い首布を巻き、拡大鏡で真珠の表面を調べている。彼女の机には弁済予定表と、縫いかけの青い布袋が置かれていた。


「これは養殖真珠です。天然物として売れば虚偽になります」


客の男が、違いなど誰にも分からないと笑った。ミレイユは真珠を白い布の上へ戻し、偽物の宝石を身につけていたころより冷たい顔で男を見た。隣の職人が止める前に、価格札へ赤い線を引いた。


「私には分かります。分からなかったふりをして署名した代金を、今も払っていますの」


昼休みになると、ミレイユは玉葱と豆苗を挟んだパンを食べた。玉葱だけは相変わらず端へ寄せ、最後まで残している。店主に行儀が悪いと言われると、これは性格ではなく生活習慣だと答えた。


夕方、エレノアは帝都の宰相府へ到着した。深いネイビーのドレスには青銀の細い刺繍が入り、背中は以前の夜会服ほど大きく開いていない。胸元には宝石ではなく、独立監査院長の銀章だけをつけていた。


ルシアンの執務室は、書類と地図で机が半分埋まっていた。窓辺には食べかけの胡桃パン、冷めた紅茶、殻を剥く途中で放置された茹で卵がある。花瓶には、王都から届いた薄紫のライラックが挿してあった。


「卵を朝から放置なさったのですか」


「昼からだ」


「威張ることではありません」


「君が来ると聞いたから、剥いてもらおうと思った」


「私は独立監査院長です。卵剥き係ではありません」


「では、婚姻後の家事分担へ入れる」


「その項目は今から協議します」


エレノアは持参した決算書と、新年度の予算書を机へ置いた。さらに、赤い糸で綴じた婚姻契約書を重ねる。ルシアンは予算書より先に契約書へ手を伸ばした。


婚姻後も財産は別に管理し、互いの職務へ命令できない。配偶者が関係する支出には第三者監査を入れ、一定額を超える贈答品は公表する。食事、住居、使用人の費用は所得に応じて負担し、卵を剥く担当は固定しないと書かれていた。


「最後の項目は必要か?」


「必要です。閣下は一年たっても上達しませんもの」


「君が剥くからだ」


「私の責任にしないでくださいませ」


「胡桃をパンから取り出す担当は、私が引き受ける」


「最初から胡桃のないパンを注文してください」


ルシアンは次の頁を開いた。どちらか一方が相手を所有物として扱い、職務や財産や交友関係を支配した場合、契約を解除できると記されている。解除時の財産配分、住居、書類の返還方法まで細かく定められていた。


「結婚する前から、別れる手続きまで書くのか」


「出口のない契約へ署名するほど、愚かではありません」


「私が君を閉じ込めると思っている?」


「思っておりません。思っていないからこそ、書面へ残せます」


ルシアンは古い黒軸のペンを手に取った。復興債の最終決裁で使い、そのままエレノアの机へ置いていた物である。彼は婚姻契約書の最後へ署名し、ペンをエレノアへ渡した。


エレノアも署名しようとしたが、ルシアンの名の横に小さなインク溜まりを見つけた。彼女は吸い取り紙を押し当て、余分なインクを取った。ルシアンは一年分の決算書より、契約書の染みを気にする女だと言って笑った。


「予算書も見てくださいませ。まだ金貨八万七千枚の赤字です」


「橋が直り、薬が余り、備蓄が増えた結果の赤字だろう」


「来年度は鉱山収入が増えますが、会計学校の設立費も必要です。黒字化はさらに一年遅れる可能性があります」


「構わない」


「宰相が簡単に構わないと仰ってはいけません」


「では、監査院長として反対するか?」


「いいえ。計算と帳簿を学ぶ者が増えなければ、同じことが起きます」


二人は予算書を一頁ずつ確認した。王宮舞踏会費は前年の五分の一になり、代わりに公立会計学校の校舎、教員、教材費が加わっている。授業料を払えない子供には、復興債の利息から奨学金を出す計画だった。


窓の外から、再開された市場の鐘が聞こえた。夕市では、イチジクの苗、ブルーベリーの鉢、小松菜、ルッコラ、豆苗が並んでいる。通りの食堂では、もやしと卵を炒める油の音がし、開けた窓から胡椒の匂いが上がってきた。


ルシアンは婚姻契約書へもう一度目を落とした。すべてを読み終えると、エレノアの手を取り、指先についた赤いインクを親指で擦った。赤い色は消えず、彼の指へも少し移った。


「君は私の人生最大の黒字だ」


エレノアは空いている手で、彼の唇へ人差し指を当てた。机の赤いペンを取り、契約書の余白へ今の発言を書き、その上へ一本の線を引く。ルシアンは止めずに、訂正される言葉を見ていた。


「人間を損益へ入れてはいけませんわ。私は、あなたと同じ帳簿を書く共同経営者です」


「では、利益は折半か」


「損失も折半です。ただし、隠し債務が発覚した場合は契約違反として――」


最後まで言い終える前に、ルシアンが顔を寄せた。触れるだけの口づけだったが、エレノアが持っていた赤いペンは契約書の上を滑り、余白へ長い線を引いた。彼女はすぐに唇を離し、紙を持ち上げた。


「線が曲がりましたわ!」


「書き直せばいい」


「署名済みの契約書です。簡単に書き直せません」


「では、その線も契約の一部にする」


「何の条項ですの?」


「私が君の話を最後まで聞かなかった記録だ」


「すでに一件目の違反ではありませんか」


エレノアは怒った声を出したが、赤い線の端へ日付を書き加えた。口づけによる記載事故と書こうとして、ルシアンに止められた。二人が言い争う間に、茹で卵はさらに冷たくなり、ライラックの花びらが一枚、予算書の上へ落ちた。


翌朝、公立会計学校の設立予算が正式に公表された。旧王宮の舞踏練習室を教室へ替え、貴族の子供も孤児院の子供も同じ机で学ぶ。最初の授業では、一杯のスープに必要な豆、薪、人手を計算することになった。


エレノアは新しい帳簿を開いた。紙はまだ白く、インク染みも林檎の汁もついていない。彼女は最初の欄へ「王宮舞踏会費」ではなく、「公立会計学校設立費」と記した。


その下へ、費用、支払先、完成予定日、責任者を書き加えた。欄外には、帽子の少女が入学時に使うための小さな石筆代も入っている。誰が見ても、何に使ったか分かる帳簿だった。


書き終えると、エレノアは紙の端を三度叩いた。一度目は今日払う金額、二度目は明日受け取る価値、三度目は、その間を暮らす人々の食事を確かめるためだった。最後に真鍮の鐘を一度鳴らし、新しい帳簿の最初の頁を、次の監査を受けるため開いたままにした。


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