第13話 一杯のスープは赤字ですか
第13話 一杯のスープは赤字ですか
旧王都へ戻った朝、広場の石畳には割れたパン屋の看板が落ちていた。夜半に降った雪が板の上へ薄く積もり、金色で描かれた麦の穂を半分隠している。店の鎧戸には拳ほどの穴が開き、その前では茶色い帽子をかぶった老人が、こぼれた小麦粉を刷毛で集めていた。
エレノアは灰色の実務服の上へ紺色の外套を羽織り、馬車を降りた。いつもの赤い糸綴じの帳面は脇に抱え、欠けた青いカップは布で包んで鞄へ入れてある。書類を開く前に紙の端を三度叩く癖は、帝都からの道中ですっかり身についていた。
「昨夜、何があったのです?」
「パンがなくなったんですよ。朝から並んでいた女房が、昼になっても一つも買えなかった。倉庫には小麦があるのに、税金が払えないから売れないと言われたんです」
老人は集めた粉を紙へ移した。泥と木屑が混ざっているのに、捨てようとはしなかった。指へついた粉を舐め、苦い顔で吐き出した。
「それは食べられませんわ」
「分かっていますよ。でも、若い頃は床へ落ちた豆でも拾えば、母親に汚いと叱られたものです。拾えるうちは、まだ腹に余裕があったんでしょうな」
市場へ入ると、肉屋の鉤には肉の代わりに干した薬草が下がっていた。八百屋には萎びた蕪が六個と、土のついた人参が三本だけ残っている。花売りの老婆は白いクリスマスローズを一輪ずつ売っていたが、客は誰も足を止めなかった。
パン屋の前には、子供を連れた母親たちが集まっていた。昨日まで銅貨二枚だった黒パンが、今朝は五枚になっている。小麦にかけられた緊急返済税、製粉所の通行税、パン窯の燃料税が、すべて価格へ加わっていた。
「五枚なんて払えないわ! 昨日は三枚だったでしょう!」
「俺に言うな。粉屋が値を上げたんだ。薪だって倍だ!」
「倉庫へ隠しているんじゃないの?」
「探したければ勝手に探せ。空の袋と鼠しかいない!」
店主が鎧戸を閉めようとすると、群衆の中から石が飛んだ。石は看板へ当たり、残っていた金色の麦を割った。赤子を抱いた女が押されて転びかけ、エレノアは反射的にその腕を掴んだ。
護衛が群衆との間へ入ったが、人々は後ろへ下がらなかった。焦げた薪、濡れた毛織物、何日も洗えていない髪の匂いが冷気の中で混ざっている。エレノアは母親の赤子が布の端を吸っているのを見て、帳面を強く閉じた。
「本日から、パン一個の上限を銅貨二枚とします。それ以上で売ることを禁じます!」
市場が一瞬静かになった。すぐに母親たちから声が上がり、拍手まで起きた。エレノアは正しい判断をしたつもりで、布告を書かせるため役所へ向かった。
ところが翌朝、市場からパンが完全に消えた。銅貨二枚では小麦代と薪代を払えず、パン屋が窯の火を落としたのである。製粉所も損をしてまで粉を売らず、残っていた小麦は荷馬車へ積まれ、税の安い隣国へ流れ始めた。
王宮の会議室では、商人組合の代表が帽子を膝へ置き、指で縁を揉んでいた。彼の上着には粉が白くつき、片方の袖口だけ焦げている。卓上の紅茶は湯気を失い、添えられた小さな砂糖菓子には誰も手をつけなかった。
「上限を命じた日の夜から、窯を閉める店が続いております。このままでは三日後、市内で焼けるパンは一個もありません」
「民が買えない値段で並べても意味がありません!」
「銅貨二枚で売れば、パン屋が一個につき一枚損をします。監査官様は、働くほど借金が増える商売を続けろとお命じになるのですか」
「それでも、小麦を隠して値上がりを待つ商人がいるでしょう」
「おります。ですが、全員ではありません。私の娘婿は昨日、自分の結婚指輪を売って薪を買いました」
エレノアは反論しようとして、口を閉じた。市場の店主を一括りにし、見せしめのような命令を出してしまった。紙の端を三度叩いても、その向こうにいるパン屋の妻や、夜中に薪を割る職人までは見ていなかった。
「私の判断が間違っていました。価格命令を撤回します」
「撤回すれば、また五枚に戻りますぞ」
「小麦へかけられた緊急返済税を止めます。製粉所の通行税と窯の燃料税も三か月間停止し、その間の不足分は別の財産から出します」
商人代表は帽子の縁を揉む手を止めた。エレノアは砂糖菓子を一つ取り、考えずに口へ入れた。空腹の舌には甘すぎて、奥歯へねっとり貼りついた。
「この菓子、固いですわね」
「先月から置かれております」
「先に教えてくださいませ」
「監査官様が怒っておられたので、言いにくかったのです」
商人代表が初めて笑った。エレノアは水を一口飲み、帳面へ税の停止期間を書き込んだ。余計な見栄を張らず、間違いを認めるほうが、固い砂糖菓子を飲み込むよりは簡単だった。
財源を探すため、エレノアは王宮の厨房へ向かった。扉を開けると、冷蔵庫代わりの石室から甘く腐った匂いが流れてきた。棚には南方産の柑橘、燻製肉、香辛料を詰めた瓶、高価なチーズが残されていたが、半分は黴び、果物から出た汁が床へ垂れていた。
老料理長は、白かったはずの前掛けで額の汗を拭った。彼の背後では若い料理人が芽の出た玉葱を選別し、まだ使えるものだけを籠へ入れている。大鍋の中には昨日の澄まし汁が残り、表面へ脂が白く固まっていた。
「なぜ、これほど食材が残っているのです?」
「王族が戻った場合に備えろと言われておりました。銀食器も百二十人分、そのまま保管しております」
「王族は戻りません」
「厨房の者は命令がなければ、一粒の胡椒も持ち出せません。先月、見習いが傷んだ林檎を一つ持ち帰り、盗みで解雇されました」
エレノアの頭に、帝都へ持ち帰った酸味の強い林檎が浮かんだ。蜂蜜で煮れば朝食になったのに、この厨房では食べられる物まで腐らせている。彼女は石室の棚を開け、鼻を刺す匂いに顔を背けた。
「使える豆、根菜、燻製肉を選んでください。傷んだ部分は除き、今日中に広場へ運びます」
「晩餐の予定はございませんが」
「共同炊事場を開きます。王宮の大鍋も使います」
「では、銀のスープ皿を出しましょうか」
「売却します。木椀なら落としても割れません」
料理長は銀食器の保管庫へ案内した。棚には王家の紋章が刻まれた皿、杯、燭台、果物籠が並び、磨かれた表面にエレノアの灰色の姿が映った。アルベルトが十七歳の誕生日に作らせた金縁の大皿には、狩猟の場面が彫られていた。
「この大皿は一度しか使われておりません。殿下が鹿肉の血で絵柄が汚れると仰せになりまして」
「食事を載せる皿が、食事で汚れるのを嫌がったのですか」
「翌年から、鑑賞用として壁へ飾られました」
銀食器と大皿は、その日のうちに商人へ売却された。代金の一部で小麦税停止中の不足を補い、残りで豆、蕪、人参、玉葱、薪を買った。王宮の裏門から銀の箱が運び出されるとき、料理長は金縁の大皿へ一礼したあと、「洗うのが面倒な皿でした」と小さく言った。
翌朝、広場に四つの大鍋が置かれた。雪解け水で濡れた石畳へ藁を敷き、王宮から運んだ長机に木椀を積む。鍋の中では白豆、蕪、人参、玉葱、細かく刻んだ燻製肉が煮え、月桂樹と胡椒の匂いが通りへ広がった。
エレノアは外套を脱ぎ、灰色の実務服の袖を肘まで上げた。黒髪は首の後ろで一本に結び、細い革手袋の代わりに厚手の布手袋を使っている。欠けた青いカップには、花屋の老婆から買ったクリスマスローズを一輪挿し、炊事場の受付に置いた。
「監査官様、その花は食べられませんよ」
鍋を混ぜていた老料理長が言った。彼の前掛けには人参の皮が一枚貼りついている。エレノアが指で示しても、料理長は腹が減れば後で食べると答えた。
「食べるために置いたのではありません。鍋ばかり見ていると、皆様の首が疲れるでしょう」
「花は下を向いておりますが」
「控えめな性格なのです」
「監査官様とは反対ですな」
「スープの胡椒を減らしますわよ」
列は広場の端まで続いた。最初の鍋が空になるころには雪がまた降り始め、人々の肩や帽子へ白い粒が積もった。エレノアは一人ずつ木椀を受け取り、底から豆をすくって入れた。
赤子を抱いた母親は、先に赤子用の薄いスープを求めた。靴職人の老人は歯が少ないため、蕪を匙で潰してほしいと言った。痩せた少年は、自分の分を半分だけ食べ、残りを布へ包もうとした。
「持ち帰ると、布へ染みますわ」
「妹が熱を出して、並べないんだ」
「蓋付きの器へ入れましょう。返すのはいつでも結構です」
「割ったら?」
「木製ですから、よほど頑張らなければ割れません」
少年は初めて口元を緩めた。エレノアは蓋に炭で小さな丸を書き、炊事場の者へ同じ家から二人分を受け取った印だと伝えた。帳面には載らない小さな印だったが、妹の夕食を守るにはそれで足りた。
昼過ぎ、広場の入り口が騒がしくなった。帝国兵に挟まれ、茶色い囚人服を着たアルベルトが歩いてきた。帳簿修復作業所から王宮倉庫の資料を確認するため、護送されてきたのである。
かつて丁寧に巻かれていた金髪は肩のあたりで乱れ、指先には黒いインクが染み込んでいた。囚人服の片方の釦は別の色で、靴には乾いた泥がついている。それでも彼は広場の人々を見下ろすように顎を上げていた。
「エレノア。なぜ、お前が給仕などしている」
「見れば分かるでしょう。昼食を配っています」
「王宮の広場で、貧民に?」
「旧王都の住民です。殿下が残された借金を返してくださる方々でもあります」
アルベルトは護送兵から木椀を渡されたが、受け取ろうとしなかった。鍋の中を覗き、浮いている白豆と人参を見て鼻を寄せる。周囲に並ぶ人々は誰も話さず、匙が木椀へ当たる音だけが続いた。
「王族だった私に、豆のスープを食べろというのか」
「食材費は一人分銅貨三枚です。王子殿下の一回の夜会で、二十七万杯作れました」
アルベルトの視線が、エレノアから鍋へ移った。広場へ集まっていた人々も、自分の木椀を見下ろした。二十七万杯という量を、すぐに思い浮かべられる者はいなかった。
エレノアは赤い糸綴じの帳面を開き、紙の端を三度叩いた。アルベルトの二十一歳の誕生日に開かれた夜会には、輸入花、氷像、外国楽団、金箔を貼った菓子、夜空へ打ち上げた魔導花火が使われていた。翌朝には食べ残された肉と菓子が荷車四台分も捨てられている。
「この広場で一日千杯配っても、二百七十日分です。殿下が三時間楽しんだ夜会で、この方々は秋から翌年の夏まで、毎日一杯の温かいスープを飲めました」
「私は金額を知らされていなかった」
「報告書を七回お渡ししました」
「帳簿など、読む必要がないと思っていた」
「ええ。だから今、殿下は帳簿を直す仕事をなさっているのです」
アルベルトの頬が赤くなった。言い返すかと思われたが、列の中から五歳ほどの少女が一歩出た。毛糸の帽子には穴が開き、そこから茶色い髪が飛び出している。
「おじさん、食べないの?」
「私はおじさんではない。二十六歳だ」
「じゃあ、お兄さん。いらないなら、弟にちょうだい」
少女の母親が慌てて腕を引いた。アルベルトは手元の空の木椀と、母親の背に負われた幼児を見比べた。やがて護送兵から椀を受け取り、エレノアの前へ差し出した。
「一杯だけだ」
「二杯召し上がっても、夜会一回分には遠く及びませんわ」
「余計なことを言うな」
「先に余計なことをなさったのは殿下です」
エレノアは鍋の底から豆をすくい、蕪と人参も均等に入れた。長く使われてきた錫の柄杓は縁が少し曲がり、持ち手には料理長が巻いた麻紐が黒く染みている。アルベルトは湯気の上がる椀を両手で持ち、立ったまま一口飲んだ。
「薄い」
「塩も値上がりしています」
「肉がほとんどない」
「四百人で分けました」
「蕪は煮崩れている」
後ろに並んでいた靴職人の老人が、声を上げて笑った。続いて母親たちも笑い、少女は弟へ豆を一粒ずつ食べさせた。アルベルトは耳まで赤くしたが、木椀を置かず、最後の汁まで飲んだ。
「これで銅貨三枚か」
「薪代と人件費を含めれば、四枚近くになります。今日は銀食器の売却益で一枚分を補っています」
「毎日続ければ、また金がなくなる」
「分かっています。炊事場は時間を買うためのものです。その間に小麦税を見直し、パン屋が商売を続けられる条件を作ります」
アルベルトは空になった椀を見た。木の底には白豆の薄い皮が一枚貼りついている。彼は指で取ろうとしたが、人々の視線に気づいて手を引っ込めた。
「二十七万杯というのは、本当なのか」
「端数を切り捨てています。正確には二十七万三千四百二十一杯です」
「そこまで言う必要があるか」
「殿下が、帳簿を読まずに済ませた結果ですから」
護送兵に促され、アルベルトは王宮倉庫へ向かった。十歩ほど歩いたところで立ち止まり、少女の木椀へ目をやった。少女は残った豆を弟と半分ずつにしていた。
「明日も、このスープは出るのか」
「出します」
「そうか」
それだけ言って、アルベルトは歩き出した。茶色い囚人服の背中には、帳簿修復作業所でつけたらしい黒いインクの染みがあった。かつての礼装よりも、その染みのほうが彼の暮らしをよく表していた。
日が傾くころ、最後の鍋が空になった。料理長は鍋底へ湯を入れ、焦げついた豆を木匙ではがしていた。エレノアは冷えた指へ息を吹きかけ、受付に置いた青いカップを鞄へ戻した。
「監査官様、昼を召し上がっておりませんな」
「味見を何度もしました」
「味見と食事は別です。鍋底に一杯分だけ残してあります」
料理長が差し出した木椀には、形の崩れた蕪と豆が沈んでいた。冷めかけていたが、燻製肉の塩気と人参の甘みが舌へ残った。エレノアは長机へ腰を下ろし、雪をかぶったクリスマスローズを眺めながら、ゆっくり食べた。
「一杯のスープは、赤字でしょうか」
「銀皿を売って作ったのです。今日だけ見れば赤字でしょうな」
「では、明日も作れば損失が増えますわね」
「腹を満たした者は、明日も働けます。パン屋は窯へ戻り、靴屋は靴を作り、子供は豆の数を覚える。その先の勘定は、私には難しすぎます」
エレノアは木椀を持ったまま、料理長を見た。彼の前掛けには、まだ人参の皮が一枚ついていた。朝から誰も取らなかったので、本人も忘れているらしい。
共同炊事場の片づけが終わると、料理長は使い込んだ錫の柄杓をエレノアへ渡した。縁が曲がっているため、倉庫へ戻しても廃棄されるという。エレノアは柄杓を受け取り、赤い糸綴じの帳面と一緒に鞄へ入れた。
その夜、彼女は会議室の壁へ柄杓を掛けた。柄についた黒い麻紐の下には、長年の火でできた焼け跡が残っている。青いカップのクリスマスローズは少し頭を垂れていたが、新しい水を注ぐと、葉が一枚だけゆっくり持ち上がった。
エレノアは翌日の小麦税改定案を開き、紙の端を三度叩いた。一度目は国庫の残高、二度目は商人の暮らし、三度目は広場で木椀を抱えていた子供たちの食事を確かめるためだった。壁の柄杓は、窓から風が入るたびに小さく揺れ、乾いた音を鳴らし続けた。




