第12話 宰相の婚約は利益相反です
第12話 宰相の婚約は利益相反です
帝都へ戻る馬車の中には、甘く煮た林檎の匂いが残っていた。酸味の強かった林檎を、リュミエール王宮の料理人が蜂蜜と少量のバターで煮てくれたのだ。エレノアは瓶の蓋を開けて一口味見し、向かい側で書類を読んでいるルシアンへ差し出した。
「冷めてもおいしいですわ。生のままでは酸っぱくても、火を入れれば長所になります」
「蜂蜜を入れすぎただけではないのか」
「では、召し上がらなくて結構です」
「食べないとは言っていない」
ルシアンは瓶を受け取り、銀の匙で林檎を二切れすくった。口に入れてから、また一切れ取る。エレノアが見ていることに気づくと、彼は瓶を自分の膝の上へ置いた。
「それは私の朝食ですわ」
「君は宿でパンを二枚食べた」
「一枚半です。残り半分は閣下が胡桃だけ抜き取ったせいで、穴だらけになったのです」
「胡桃は歯に挟まる」
「パンから取り出しても、食べれば同じことですわ」
馬車の隅には、布で包んだ欠けた青いカップが置かれていた。第十一話の会議室に飾っていた野菊は、王都を出る朝に最後の花びらを落とした。エレノアは茎だけになった花を捨てられず、カップと一緒に帝都まで持ち帰っていた。
帝都へ着いたのは、初雪が屋根を薄く白くした日の午後だった。大通りの花屋には赤い柊の実と白いクリスマスローズが並び、焼き栗の屋台から香ばしい煙が流れている。ところが宰相邸の門前には新聞記者が集まり、焼き栗の紙袋より大きな号外を掲げていた。
見出しには、「亡国令嬢へ流れた帝国資金」と書かれていた。その下には、エレノアが深夜色のドレスを着てルシアンへ寄り添う絵が描かれている。実際より胸元が深く、腰は両手で囲めそうなほど細かった。
「私、この絵のような体でしたら、内臓を三つほど失っておりますわ」
「見る必要はない」
「閣下こそ、なぜ胸元を手で隠しているのです?」
「帝国の印刷技術が無駄に優れているからだ」
ルシアンは号外を二つ折りにしたが、紙の裏側にはさらに大きく二人の顔が印刷されていた。エレノアは笑いかけたものの、門番や使用人の視線が自分の胸元へ集まっているように思え、外套の留め金を一つ上まで閉じた。門をくぐったところで、帝国議会からの出頭命令が二人を待っていた。
翌朝の議会では、保守派筆頭のグラーツ公爵が質問台へ立った。銀髪には薔薇の香油が塗られ、濃紺の上着には九つの勲章が並んでいる。彼が腕を動かすたびに金鎖が触れ合い、しゃらしゃらと涼しい音を立てた。
「リュミエールへの緊急融資、穀物支援、橋の修繕、診療所への薬品供給。いずれも帝国へ短期的な利益をもたらさない支出です。にもかかわらず、宰相閣下は通常の審査を急がせた」
グラーツ公爵は一枚の新聞を掲げた。傍聴席では婦人たちが扇を開き、書記官はインク瓶の縁でペン先を二度叩いた。エレノアの前に置かれた紅茶はすでに冷め、表面には薄い膜が張っていた。
「宰相閣下にとって、彼女だけが特別な投資先なのでしょう」
議場の視線が一斉にエレノアへ向いた。彼女は首元まで閉じた灰色のドレスを着て、胸には財政再建監査官の銅章だけを留めていた。答弁書を持つ革手袋の中で、指先へ汗がにじんだ。
「支援金は私個人ではなく、リュミエールの小麦、医薬品、薪、橋梁修繕へ使われています。用途別の領収書も提出済みです」
「しかし、監査する者と決裁する者が、夜会では腕を組んでいる。深夜には宰相邸の同じ部屋で書類を読んでいるそうではありませんか」
「執務室です。机も別です」
「寝室は?」
「公爵閣下は、帝国予算より寝台の配置にご関心がおありなのですね」
余計なことを言ったと気づいたときには、議場のあちこちから笑いが漏れていた。グラーツ公爵の薔薇色だった頬が濃くなる。ルシアンは片手で口元を覆っていたが、咳ではないことくらいエレノアにも分かった。
「私は帝国財政の清廉さを問うているのだ!」
「でしたら、寝室ではなく帳簿をご覧くださいませ!」
エレノアの声が石造りの天井へ響いた。怒りに任せて答えたため、議長が木槌を二度鳴らした。グラーツ公爵は待っていたように、宰相府が購入したドレスと宝飾品の明細を掲げた。
ミッドナイトブルーの深紅刺繍ドレス、青銀の首飾り、純白の背中が開いたドレス、真珠の髪飾り、舞踏靴。その合計額は、地方診療所の半年分の薬代に近かった。すべて外交用の衣装費として処理されていたが、エレノアへ贈られたまま宰相邸に保管されている。
「この支出も、リュミエールの民を救うためですかな?」
エレノアはすぐに反論しようとして、口を閉じた。夜会で帝国の財務官や外国商人と交渉するため、衣装は必要だった。しかし衣装を選んだのはルシアンであり、その後も自分が使っている。正当な公費だと言い切れば、職務上の必要性と個人的な贈り物の境目を、自分に都合よく曖昧にすることになる。
「贈答品の扱いについて、私の判断が甘かったことを認めます。第三者による監査を申し出ます」
ルシアンが横を向いた。いつも平らな眉間に、深い線が一本入っている。エレノアは彼を見ず、議長へ向けて言葉を続けた。
「監査が終わるまで、宰相閣下との私的な面会を停止します。支援金の決裁過程、旅費、衣装費、食費を公開し、私が受け取った品には一点ずつ現在の評価額をつけて返却いたします」
「そこまでする必要はない」
ルシアンが低い声で言った。議長の許可を得ていない発言だったが、誰も止めなかった。エレノアは答弁書の端を揃えようとして、指で強く折り目をつけた。
「必要です。閣下が私を庇えば、恋情による便宜だと判断されます」
「実際に必要だった衣装まで返すのか」
「必要になれば、宰相府から正式に借ります。その都度、使用日と目的を記録します」
「君は自分まで備品にするつもりか」
「私は備品ではありません。だからこそ、閣下と私の境界を明らかにするのです」
議会は、エレノアの申し出を受理した。彼女は三十日間、ルシアンが出席する支援審査から外れ、独立した検査官へ全資料を提出することになった。グラーツ公爵は満足そうに勲章を撫でていたが、エレノアは彼の袖口に林檎煮のような茶色い染みがあることに気づき、なぜか少しだけ息がしやすくなった。
宰相邸へ戻ると、エレノアは侍女のマーサと一緒に衣装棚を開いた。棚の中には香草を詰めた防虫袋が下がり、乾燥したラベンダーの匂いがした。マーサは洗濯で荒れた手へ蜜蝋の軟膏を塗りながら、衣装箱を床へ並べた。
「本当に全部お返しになるのですか。深夜色のドレスは、あれほどお似合いでしたのに」
「似合うかどうかと、所有権は別です」
「純白のドレスは、背中が寒そうでした。冬に着たら風邪を引きます」
「冬の夜会では着ませんわ」
「では春まで置いておきましょう」
「マーサ。返却を手伝う気がありますの?」
「ありますとも。ただ、衣装箱は重いので、夕食のあとにしたいだけです。今日の羊肉の煮込みには栗が入るそうですよ」
マーサは話しながら、深夜色のドレスを寝台の上へ広げた。青銀の宝石が窓から入る冬の日差しを受け、天井へ淡い光を返した。エレノアは胸元の深紅刺繍へ指を置き、帝国の夜会でルシアンに手を取られた晩を思い出した。
「あの夜、私はこのドレスに負けない人間になろうと思いました」
「今は?」
「ドレスがなくても、同じ場所へ立てます」
「でしたら、返しても大丈夫ですね。けれど、その黒い靴はおやめください。右の踵だけ減って、歩くたびに音が違います」
マーサに言われ、エレノアは古い黒靴で床を二歩歩いた。右がこつん、左がかつんと鳴る。二人は顔を見合わせ、しばらく問題とは関係のないことで笑った。
夕食後、衣装箱は一点ずつ封をされ、評価額を書いた札がつけられた。深夜色のドレスだけは最後まで寝台の上に残っていたが、エレノアは青銀の首飾りと一緒に大きな箱へ収めた。箱を閉めたあと、部屋が急に広くなったように見えた。
廊下では、使用人が翌朝のパン生地を捏ねる音がしていた。台所から栗と羊肉の煮込みの匂いが漂い、マーサが置いていった食後の林檎煮は皿の端で冷えている。エレノアは欠けた青いカップへ新しい水を入れ、枯れた野菊の代わりに庭で咲いていた白いクリスマスローズを一輪挿した。
翌朝、十二個の衣装箱と宝石箱が宰相執務室へ運ばれた。机の上には朝食を取った跡があり、半分に割った黒パンと、殻を剥いていない茹で卵が残っていた。ルシアンは深夜色のドレスの札を読むと、他の箱には触れず、蓋だけを開いた。
「これまで返すのか」
「現在の評価額は購入時の七割です。夜会で三度着用しましたから、妥当でしょう」
「私は価格を聞いていない」
「刺繍のほつれもありません。次に使用する方にも――」
「他の誰にも着せない」
ルシアンの声が低くなった。エレノアは彼がドレスの価値を惜しんでいるのだと勘違いし、保管費まで説明しようと帳面を開いた。ところがルシアンは、深夜色の布を片手で掴み、彼女をまっすぐ見た。
「私まで返却するつもりか」
「私は閣下の所有物ではありません。ですから、返却も売却もできませんわ」
「そういう話をしているのではない」
「では、どういうお話ですの?」
「私的な面会をやめ、贈った品をすべて返し、私の隣からも退く。それを返却と呼ばずに、何と呼ぶ」
エレノアは開いた帳面へ目を落とした。そこには衣装の評価額しか書かれておらず、自分が何を守りたくて返却を選んだのかは、一行も記されていなかった。彼女は説明を急ぐあまり、ルシアンが自分を遠ざけたいのだと受け取る可能性を考えていなかった。
「私は、閣下の隣から退きたいのではありません。誰かに選ばれた女としてではなく、自分の判断に責任を持つ財政官として立ちたいのです」
「その二つは同時にできないのか」
「同時にできる仕組みを、これから作ります」
「また契約書か」
「ええ。閣下は口約束より契約書を信頼なさるでしょう」
ルシアンは茹で卵を手に取り、机の角へぶつけた。力が強すぎて殻が細かく割れ、白身まで少し欠けた。エレノアが布巾を差し出すと、彼は卵を皿へ戻した。
「私は卵を剥くのが苦手だ」
「存じませんでした」
「君は私の食事を監査する割に、知らないことが多い」
「閣下は林檎煮を一瓶の半分以上召し上がります。黒パンから胡桃だけを抜きます。熱い紅茶は必ず残します」
「それだけ知っていれば十分だ」
「いいえ。婚姻を検討するなら、借入金、保有資産、既往症、寝言の有無も必要です」
「待て。誰が婚姻すると言った」
ルシアンが茹で卵を持ったまま固まった。エレノアも、自分が婚姻という言葉をあまりに自然に口にしたことへ気づいた。耳の付け根が熱くなり、眼鏡を押し上げようとして、必要以上に強く鼻へ押しつけた。
「仮定です。将来起こり得る利益相反を想定しただけですわ」
「相手は私でなくてもよいのか」
「今のところ、他の候補者はおりません」
「今のところ?」
「その言葉だけ拾わないでくださいませ!」
エレノアは声を上げたあと、執務室にいた書記官と侍従が一斉に窓の外を見ていることに気づいた。窓辺の鉢には冬咲きのシクラメンがあり、赤い花の一つが暖房の熱で横へ倒れている。侍従は何も聞いていない顔で、倒れた茎へ細い支柱を添え始めた。
その日の午後、エレノアは婚姻契約書の草案を書いた。婚姻後も財産を別にし、互いの職務上の判断へ命令できないこと。配偶者が関係する支出は第三者の審査を受け、一定額を超える贈答品は公開すること。離婚や死別の場合にも、国家機密と監査資料を私的な交渉材料にしないことを加えた。
書き始めて一時間後、紙の端には二重線と書き直しが増えていた。冷めた林檎茶には果肉が沈み、皿の上の蜂蜜入りビスケットは一枚だけ欠けている。エレノアは無意識に、読み上げる前に紙の端を指で三度叩いていた。
ルシアンとの私的な面会をやめたため、夕食は一人だった。長い食卓には鱒の香草焼き、蕪のスープ、林檎と胡桃のサラダが並んでいたが、向かいの席は空いている。エレノアはサラダの中から胡桃を一つ取り出し、ルシアンなら先にこればかり食べるだろうと思った。
食後、彼女は婚姻契約書の草案を赤い糸綴じの帳面へ挟んだ。欠けた青いカップのクリスマスローズは、花を下へ向けたまま静かに咲いている。その横には、深夜色のドレスから外れていた小さな深紅の糸が一本だけ残っていた。
エレノアはその糸を捨てず、契約書の最初の頁へ挟んだ。明日から彼女は、書類を読む前に紙の端を三度叩く。一度目は金額、二度目は相手、三度目は、その判断によって食事や薪を失う者がいないか確かめるためだった。




