第12話 宰相の婚約は利益相反です
第12話 宰相の婚約は利益相反です
翌朝、王宮の小厨房には、甘い蜜と焼けた林檎の匂いが満ちていた。料理人は昨日の馬車に残されていた酸味の強い林檎を薄く切り、蜂蜜とバターを加えて銅鍋で煮ていた。窓辺には欠けた青いカップが置かれ、中の野菊は一晩で花びらを二枚落としている。
エレノアは灰色のドレスの上へ白い前掛けを結び、木匙で鍋をかき混ぜていた。蜂蜜を入れすぎたらしく、湯気を味見すると舌が痺れるほど甘い。そこへ黒い執務服を着たルシアンが入り、火のそばに積まれた林檎の皮を見下ろした。
「財政再建監査官は、朝から料理人へ転職したのか」
「廃棄予定だった林檎の再利用を試しているだけです。酸味が強くても、熱と蜂蜜を加えれば食べられますわ」
「その量の蜂蜜を使えば、革靴でも食べられる」
「では、閣下の靴で試しましょう。片方お貸しくださいませ」
料理人が背中を向けたまま肩を震わせた。エレノアは焼いた薄切りパンへ林檎煮を載せ、ルシアンの前へ置いた。彼は警戒するように一口食べたあと、甘すぎるとは言わず、もう一切れパンを取った。
「昨日は林檎を酸っぱいと言っていたな」
「加熱すれば長所になります。生食に向かないだけで、菓子には適した品種ですわ」
「人間も同じだと言いたいのか」
「いいえ。朝食に教訓を添えると消化が悪くなります」
二人が林檎煮を食べ終える前に、帝国から急使が到着した。黒い封蝋が押された書状には、ルシアンとエレノアが三日以内に帝都の議会へ出頭するよう記されていた。財政破綻したリュミエールへ帝国資金を不当に投入し、その見返りとして宰相がエレノアへ私的な利益を与えているという告発が提出されたのである。
告発者は、帝国保守派のグラーツ公爵だった。彼はリュミエールの美術品売却が決まった翌日に、宰相と監査官の関係を問題にした。書状の別紙には、エレノアがルシアンから贈られたドレス、宝石、革鞄、赤い糸で綴じた帳面まで、一点ずつ価格が書かれていた。
「帳面まで贈答品として記録されていますわ」
「帝国製の紙を使っているからだろう」
「林檎は入っていません」
「あれは宿屋の主人から私がもらった。その半分を君が食べた」
「では、林檎半個分の利益供与ですわね」
エレノアは冗談を言ったつもりだったが、ルシアンは笑わなかった。書状を持つ彼の親指が、同じ箇所を何度も擦っている。ルシアンは考え事をするとき、紙の端を指で傷める癖があった。
二日後、二人は帝都へ戻った。初雪の降った大通りでは、肉屋の軒先に塩漬け肉が吊るされ、花売りの籠には赤い柊の実と白いクリスマスローズが並んでいた。エレノアは馬車の窓からそれを眺めながら、膝に載せた青いカップが割れないよう、厚い布で包み直した。
「それまで持ってきたのか」
「リュミエールの会議室へ置いておくと、誰かが捨てそうでしたから」
「欠けたカップを帝都へ運ぶ監査官は、君くらいだ」
「欠けていても、水は漏れません。閣下は傷のない銀器で飲んでも、紅茶を半分残すでしょう」
「熱いものが苦手なんだ」
「初めて聞きましたわ。冷徹な宰相は、猫舌だったのですね」
ルシアンが眉間に皺を寄せたので、エレノアは久しぶりに小さく笑った。しかし馬車が宰相邸へ近づくと、門前に新聞記者が集まっているのが見えた。彼らが掲げた号外には、「亡国令嬢、色香で帝国宰相を操る」と大きく印刷されていた。
記事には、帝国の夜会でエレノアが着たミッドナイトブルーのドレスの絵が載っていた。実物より胸元が深く描かれ、腰も不自然なほど細くされている。その下には、リュミエールへの支援金がエレノアの宝飾品代へ流れたかのような文章が添えられていた。
「ずいぶん高価な胸に描かれていますわね。私の記憶では、ここまで深く開いておりません」
「見るな」
「閣下こそ、どこをご覧になっているのです?」
「記事の見出しだ」
「絵の胸元を手で隠しながら?」
エレノアは新聞を奪い、二つ折りにした。冗談を口にしている間はよかったが、宰相邸へ入ると使用人たちまで自分のドレスを見ているように思えた。彼女は外套の留め具を普段より高い位置で留め、夕食も取らずに貸与品の一覧を作り始めた。
寝室の長椅子には、ルシアンから贈られたドレスが次々と並べられた。深夜色、純白、黒と青銀、葡萄酒色の四着である。青銀の宝石、真珠の髪飾り、革手袋、舞踏靴も箱へ戻し、使用回数と現在の評価額を書いた札をつけた。
侍女のマーサは、純白のドレスの背中に薄紙を詰めながら、何度もため息をついた。彼女の指には洗濯でできた小さなひびがあり、蜜蝋の軟膏の匂いがした。暖炉のそばでは、マーサが夜食に持ってきた茸のスープが冷め、表面に薄い膜を作っていた。
「全部お返しになるのですか。深夜色のものは、よくお似合いでしたのに」
「似合うかどうかは関係ありません。贈答品が判断へ影響したと疑われる余地をなくします」
「舞踏靴まで返したら、監査官様は明日の議会へ何を履いていくのです?」
「追放された日に履いていた黒靴があります」
「あれは踵が片方減っています。廊下を歩くと、右だけこつん、左がかつんと鳴りますよ」
エレノアは靴箱から黒靴を出し、絨毯の上で二歩歩いた。本当に右と左で音が違った。マーサが笑うので、エレノアもつられて口元を緩めたが、深夜色のドレスへ目を戻すと、胸の内側へ硬い板を入れられたようになった。
「これを着たとき、私は初めて、帳簿を持たずに人前へ立てました」
「なら、一着くらい残してはいかがです?」
「一着だけなら許されるという考えが、不正の始まりです」
「思い出まで箱へ入れる必要はありませんよ」
「思い出に価格はつけられません。ですから、今回は品物だけ返します」
その夜遅く、ルシアンが寝室を訪れた。彼は夕食に出された鴨肉をほとんど残したらしく、襟元には香草ソースの小さな染みがついていた。エレノアが指で示すと、ルシアンは濡らした布で擦ったが、染みは横に広がった。
「余計にひどくなりましたわ」
「君は服の染みまで監査するのか」
「そのまま議会へ出れば、宰相は食事も満足にできないほど動揺していると書かれます」
「実際、動揺している」
ルシアンの言葉に、エレノアの手が止まった。彼は長椅子に並ぶ箱を見て、深夜色のドレスの蓋へ手を置いた。表情はいつもと変わらなかったが、紙の端を擦るときと同じように、親指が箱の縁を行き来していた。
「これをすべて返すつもりか」
「貸与品として扱い、宰相府の資産台帳へ戻します。私的な贈与と公務上の必要経費が混ざっていました」
「私が君に贈りたかったものまでか」
「お気持ちは項目にできませんから、返しません」
「では、このドレスは?」
「布と刺繍と宝石です。返却できます」
ルシアンは箱から手を離し、窓辺の青いカップへ目を向けた。枯れかけた野菊はリュミエールからの道中で花びらをほとんど落とし、細い茎だけが残っている。エレノアは捨てる機会を逃したまま、水だけを替えていた。
「私まで返却するつもりか」
「私は閣下の所有物ではありません。ですから、返却も売却もできませんわ」
「そういう意味で聞いたのではない」
「では、どういう意味ですの?」
「今それを説明すれば、明日の議会で私が君を庇う理由が増える」
ルシアンは踵を返した。エレノアは呼び止めようとしたが、衣装箱の山が二人の間にあった。扉が閉まったあと、冷めた茸のスープを一口飲むと、塩味がほとんど感じられなかった。
翌日の帝国議会には、傍聴席まで人が詰めかけていた。エレノアは首元まで閉じた灰色のドレスと、左右で音の違う黒靴を身につけていた。胸元には宝石の代わりに、財政再建監査官の銅章だけを留めている。
グラーツ公爵は、銀髪を香油で固め、濃紺の上着に九つの勲章を並べていた。彼が立ち上がると、甘い薔薇の香油が議場の中央まで漂ってきた。公爵はエレノアの返却品一覧を掲げ、満足そうに唇を曲げた。
「自ら返却なさったということは、不適切な贈与だったとお認めになるのですな」
「疑いを避けるための返却です。不正を認めたものではありません」
「では、宰相閣下とのご関係を説明していただきたい。恋人ですか。部下ですか。それとも、国費で着飾らせる愛妾ですかな」
議場のあちこちで扇が動き、紙の擦れる音が広がった。エレノアは用意した答弁書を開いたが、愛妾という文字が頭の中に残り、次の行を読み違えた。リュミエール支援金の金額を一桁多く読み上げてしまい、グラーツ公爵がすぐに声を上げた。
「ほう。監査官ご自身が、予定額の十倍を認められた!」
「違います。読み間違いです」
「都合が悪くなると書類まで変わるのですかな」
「一桁読み違えただけです。訂正いたします」
エレノアは答弁書を握りしめた。紙が音を立てて皺になり、爪の先が白くなった。ルシアンが立とうとしたため、彼女は机の下でその袖を掴んだ。
「お座りください。私の誤りを閣下が取り繕えば、相手の思うつぼです」
「だが、今の発言は侮辱だ」
「先ほど私も、閣下へ余計なことを言いました。おあいこですわ」
「おあいこで済ませる気か」
「その染みの残った襟で立つほうが問題です」
ルシアンが自分の襟へ手をやると、傍聴席から小さな笑いが起きた。張りつめていた空気がわずかに緩み、エレノアは息を吸い直した。答弁書を伏せ、今度は原稿を読まずにグラーツ公爵を見た。
「私は一桁読み違えました。ここで訂正し、議事録にも誤読として残します。誤りを隠すために別の帳簿を作ったり、他人へ責任を押しつけたりはいたしません」
「それで信頼が戻ると?」
「一度の訂正で戻るとは申しません。だからこそ、宰相府から独立した監査を受けます。私が関わったリュミエール支援金、衣装費、旅費、食費まで、すべて公開いたします」
「食費まで?」
「宿屋でもらった林檎の半分については、宰相閣下との共同受領です。加熱に使用した蜂蜜は王宮厨房の在庫ですが、私が入れすぎました」
議場に、今度ははっきりした笑い声が広がった。グラーツ公爵は笑わず、勲章の一つを指で直した。エレノアはルシアンとの私的な面会を監査終了まで停止し、公務上の指示は書面で受けると宣言した。
「さらに、宰相閣下と将来婚姻する場合を想定し、職務と私生活を分離する契約を作成します。配偶者になった者が人事、予算、監査結果へ介入できない条項を入れます」
「将来婚姻する場合、ですと?」
グラーツ公爵より先に、ルシアンが聞き返した。エレノアはそこで、自分が何を口にしたのかに気づいた。傍聴席の婦人たちが一斉に身を乗り出し、書記官までペンを止めている。
「仮定の話です。制度設計には、複数の可能性を想定する必要があります」
「私には一度も相談がなかったが」
「今、議会全体へ相談しております」
「婚姻の話をか?」
「利益相反の話です!」
エレノアの声が議場の天井へ響いた。耳の先まで熱くなり、灰色の襟が急に窮屈になった。グラーツ公爵は追及を続けようとしたが、議長が机を叩き、提出された会計資料の第三者検査を先に行うと決めた。
議会が終わると、エレノアは左右で違う靴音を鳴らしながら廊下を急いだ。右がこつん、左がかつんと響くたび、後ろからルシアンの足音が近づいた。逃げる理由はないはずなのに、彼女は角を二つ曲がり、冬の中庭まで来てしまった。
中庭の花壇には、雪をかぶったクリスマスローズが咲いていた。白い花は下を向き、葉の陰には昨日の雪がまだ残っている。庭番の老人が木の匙で蜂蜜湯を飲みながら、二人を珍しそうに眺めていた。
「婚姻契約を作るそうだな」
「仮定です。百種類ほどある将来の一つですわ」
「残りの九十九種類は?」
「今から考えます」
「夕食を別々に取る将来も入っているのか」
「監査が終わるまでは、私的な面会を停止すると申し上げました」
「なら、今は公務だ。君の答弁書の誤読について確認している」
ルシアンは懐から、小さな紙包みを取り出した。中には、朝の林檎煮を挟んだパンが二切れ入っていた。蜂蜜が染み出し、紙の角が濃い色になっている。
「昼食を食べていないだろう」
「これは私的な贈与では?」
「厨房の料理人から預かった。私は運搬しただけだ」
「一切れは閣下が召し上がってください。共同受領にします」
二人は雪の残る長椅子を布で払い、少し間を空けて座った。林檎は冷えていたが、朝より甘さが落ち着き、皮にはわずかな酸味が残っている。庭番の老人は蜂蜜湯を飲み終えると、空になったカップを懐へ入れ、何も見なかったように温室へ戻っていった。
その晩、エレノアは返却する予定だった赤い糸綴じの帳面を、再び机へ載せた。これは贈られた品ではなく、公務上の記録用具として宰相府から貸与されたものに改めることにした。最初の頁には四十三人の子供の人数があり、次の頁には衣装と宝飾品の評価額、その次には婚姻時の利益相反を防ぐ条項を書き始めた。
欠けた青いカップの野菊は、とうとう最後の花びらを落とした。エレノアは茎を捨て、代わりに中庭で庭番からもらったクリスマスローズを一輪挿した。花のそばには、議場で読み違えた箇所を赤く囲んだ答弁書を置いた。
翌朝から、エレノアには紙の端を指で三度叩いてから読み上げる癖がついた。一度目で桁を確かめ、二度目で単位を見て、三度目で声に出すためである。その癖は、彼女が次の報告書に潜む不自然な黒字を見つけるまで、誰にも理由を明かされなかった。




