第十話 新しい帳簿の最初のページ
第十話 新しい帳簿の最初のページ
リュミエール王国財政破綻。
その報せは、大陸中を駆け巡った。
王都では鐘が鳴り、人々は広場へ集まり、新聞商が叫ぶ。
「王国崩壊!」
「帝国保護領化決定!」
「王家資産凍結!」
冬の風が冷たい。
だが民衆の顔には、奇妙な安堵があった。
もう終わったのだ。
長い赤字も。
腐った浪費も。
貴族たちの虚飾も。
全部。
一方その頃、旧王宮地下監査室では、地獄みたいな静けさが続いていた。
紙をめくる音。
ペン先が走る音。
そして時折響く、乾いた咳。
アルベルトは机へ突っ伏しそうになりながら、数字を書き続けていた。
「違います」
冷たい声が飛ぶ。
帝国監査官だった。
「第三港湾負債の計算がずれています。やり直しを」
アルベルトの肩が震える。
「……またか」
「当然です。誤差がありますので」
「こんな量、一人で終わるわけがないだろう!」
「ですがエレノア・グレイス嬢は十年間、一人で処理していました」
空気が止まる。
アルベルトは何も言えなくなった。
机の上には終わりの見えない帳簿。
積み上がる借金記録。
滞納一覧。
不正支出。
赤字。
赤字。
赤字。
どれも、自分が見ようとしなかった数字だ。
指が痛い。
肩が重い。
インク臭い。
目が霞む。
なのに、終わらない。
「……っ」
アルベルトは震える息を吐いた。
初めて理解する。
エレノアは毎日、これをやっていたのだ。
夜会にも出ながら。
笑われながら。
誰にも感謝されず。
一人で。
「殿下」
監査官が冷たく言った。
「手が止まっています」
アルベルトは黙って再びペンを握った。
もう王子ではない。
ただの債務処理労働者だった。
一方、ノクス帝国中央行政塔では、暖かな灯りが夜を照らしていた。
最上階執務室。
大きな窓の向こうには帝都の光が広がっている。
雪が静かに降っていた。
エレノアは長机へ書類を並べながら、小さく息を吐く。
「北部物流予算をこちらへ移します」
「理由は」
ルシアンが問い返す。
「春先の交易量増加対策です」
「……なるほど」
ペンが走る。
二人の声だけが静かに響いていた。
以前のエレノアなら想像もしなかった。
誰かと並んで帳簿を作る日が来るなんて。
しかも相手は、自分の数字を理解してくれる男だ。
「疲れたか」
ルシアンが低く聞く。
「少しだけ」
「休め」
「まだ終わっていません」
「真面目だな」
「会計士ですので」
ルシアンが喉で笑った。
暖炉の火がぱちりと弾ける。
部屋には珈琲とインクの匂いが満ちていた。
エレノアはふと窓の外を見る。
雪。
白い世界。
静かだった。
「不思議です」
「何が」
「こんな未来、考えたこともありませんでした」
ルシアンはペンを置く。
「どんな未来だ」
「数字を隠さなくていい場所です」
エレノアは小さく笑った。
「怒鳴られずに済みますし」
「それは重要だな」
「あと、給料がちゃんと出ます」
「かなり重要だ」
思わず二人で笑ってしまう。
その穏やかさに、エレノアは少し驚いた。
昔の自分は、笑うことすら忘れていた。
灰色ドレスで。
誰にも見られないように生きていた。
でも今は違う。
ルシアンが静かに立ち上がる。
「エレノア」
「はい?」
「これを」
差し出された箱を開き、エレノアは息を呑んだ。
深いネイビーのドレスだった。
夜空みたいな色。
銀糸が星みたいに刺繍されている。
胸元は美しく開き、背中は大胆に露出していた。
滑らかな絹へ指先が沈む。
「また背中がありません……」
「必要か?」
「あります」
「私は無いほうが好きだ」
「聞いてません」
エレノアは呆れながら笑った。
その顔を、ルシアンがじっと見ている。
「……何です」
「綺麗だと思っている」
「まだ着てません」
「着ても着なくてもだ」
心臓が跳ねる。
この男は時々、平然ととんでもないことを言う。
エレノアは誤魔化すように視線を逸らした。
「本当に、口説き方が下手ですね」
「効率重視だ」
「恋愛に効率を求めないでください」
「無理だな」
ルシアンはエレノアへ近づく。
指先がそっと頬へ触れた。
熱い。
その熱がじわりと広がる。
「最初に会った時」
ルシアンが低く言う。
「君は、世界の終わりみたいな顔をしていた」
エレノアは静かに目を伏せた。
雨の国境。
冷たい風。
追放。
全部思い出す。
「……はい」
「だが今は違う」
ルシアンの指が髪を撫でる。
「君は前を向いている」
エレノアはゆっくり彼を見上げた。
銀灰色の瞳。
冷たいはずなのに、不思議と安心する。
「ルシアン様」
「何だ」
「あなたは、変な人です」
「知っている」
「人を国家予算みたいに扱いますし」
「君も数字で会話するだろう」
「否定はしません」
ふっと笑い合う。
暖炉の火が揺れる。
雪が静かに降り続ける。
ルシアンはエレノアの腰を引き寄せた。
ネイビードレスの布が指先で擦れる。
そのまま額へ、静かな口づけが落ちた。
エレノアの呼吸が揺れる。
そして彼は、低く囁く。
「君はもう“赤字”ではない」
銀灰色の瞳が、真っ直ぐエレノアを映していた。
「私の人生最大の黒字だ」
胸の奥が熱くなる。
泣きそうなのに、不思議と苦しくない。
エレノアは静かに笑った。
「……それ、たぶん世界一ロマンのない愛の告白です」
「だが君には伝わるだろう?」
悔しいほど、伝わってしまう。
エレノアはそっと彼の胸へ額を預けた。
暖かかった。
数字ばかりだった人生の最後に。
ようやく彼女は、自分自身の幸せを記帳できたのだった。




