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エピローグ 紫陽花に祈る

エピローグ 紫陽花に祈る


 初夏の雨は静かだった。


 ノクス帝国宰相邸の庭へ、細い雨粒がやわらかく落ちている。濡れた石畳は淡く光り、葉先には透明な雫が揺れていた。


 庭の隅では、紫陽花がゆっくり色づき始めている。


 まだ咲き切らない、小さな花。


 青とも紫ともつかない曖昧な色が、雨に濡れてはんなりと滲んでいた。


 エレノアは窓辺に立ち、その景色を静かに見つめていた。


 肩には薄いオーガンジーのシルクショール。


 淡い紺色の透ける布地が、雨風にふわりと揺れる。


 自分で買ったものだった。


 誰かに与えられた褒美ではなく。


 誰かへ見せるためでもなく。


 ただ、自分が欲しいと思って買った。


 そんな些細なことが、今でも少し不思議だった。


「また外を見ている」


 低い声が背後から響く。


 振り返ると、ルシアンが執務服のまま立っていた。


 黒いシャツの袖を捲り、手には書類を抱えている。相変わらず仕事帰りらしく、インクと革の匂いがした。


「休憩中です」


「三十分前にも聞いた」


「会計士の休憩は長いんです」


「初耳だな」


 ルシアンが近づいてくる。


 エレノアは小さく笑った。


 昔なら考えられなかった。


 こんなふうに、他愛のない会話をする毎日なんて。


「紫陽花が咲き始めました」


「……ああ」


 ルシアンも窓の外を見る。


 雨音が静かに響く。


 遠くで小鳥が鳴いた。


「リュミエールでは、紫陽花は“辛抱強い花”と呼ばれていました」


 エレノアがぽつりと言う。


「土が変わっても咲くから」


「君みたいだな」


「どういう意味です」


「どこの国でも生き残る」


「褒めてます?」


「かなり」


 エレノアは肩を竦めた。


 ショールの絹がさらりと肌を滑る。


 柔らかい。


 優しい感触だった。


 ふとルシアンがその布へ触れる。


「新しいものか」


「ええ」


「贈り物ではないな」


「自分で買いました」


 その瞬間、ルシアンの目が少し細くなった。


「……そうか」


 短い言葉だった。


 けれど、嬉しそうだった。


 エレノアは不思議に思う。


「何です?」


「いや」


 ルシアンはショールの端を指先で撫でる。


「君は昔、自分のために金を使わなかった」


 エレノアは静かに息を吐いた。


「そんな余裕、ありませんでしたから」


 夜会のドレス代。


 王族の赤字。


 貴族の補填。


 気づけば、自分の欲しいものなんて考えなくなっていた。


 灰色ドレスだけで十分だった。


 目立たなければいいと思っていた。


 誰にも期待されないように。


 誰にも失望されないように。


「でも最近」


 エレノアは雨を見つめながら言う。


「少しだけ、自分の好きなものを選べるようになりました」


「例えば?」


「このショールとか」


「他は」


「紅茶の茶葉とか」


「地味だな」


「会計士ですので」


 ルシアンが喉で笑う。


 その笑い声は、以前よりずっと柔らかくなった。


 窓の外では紫陽花が揺れている。


 エレノアはその花を見つめながら、静かに呟いた。


「……アルベルト殿下たちは、どうしているのでしょうね」


 ルシアンは少し黙った。


「聞くか?」


「いえ」


 エレノアは小さく首を振る。


「ただ、ふと思っただけです」


 王国は帝国保護領となった。


 アルベルトは今も帳簿修復作業を続けているらしい。


 ミレイユは没収後、親族領地へ戻されたと聞いた。


 昔なら。


 もっと胸が痛んだかもしれない。


 もっと怒っていたかもしれない。


 もっと憎んでいたかもしれない。


 けれど今は、不思議と違った。


「エレノア」


「はい」


「君は優しいな」


 彼女は少し驚いて振り返る。


「そうでしょうか」


「ああ」


 ルシアンは静かに言う。


「普通なら、もっと復讐を望む」


 エレノアは少しだけ考えた。


 雨音。


 紫陽花。


 柔らかなショール。


 暖かな部屋。


 今、自分は満たされている。


 だからなのかもしれない。


「ざまぁは、もう十分しましたから」


 ルシアンが笑う。


「確かにな」


「でも」


 エレノアは窓の外へ視線を戻した。


「好きじゃない人のために祈れるようになったら、少し素敵だと思いませんか?」


 静かな言葉だった。


 雨に溶けるみたいな声。


 ルシアンは何も言わなかった。


 ただ彼女を見ている。


 エレノアは続ける。


「許すとか、忘れるとか、そういう綺麗な話ではなくて」


 ショールを胸元へ引き寄せる。


「ただ、“あの人たちも、いつか自分の間違いに気づけたらいいですね”って」


 紫陽花が揺れた。


 恥ずかしそうに。


 それでも静かに色づいていく。


「私はもう、あの頃の灰色ドレスじゃありませんから」


 ルシアンがそっと彼女の肩を抱く。


 温かい。


 エレノアはその体温へ静かに寄り添った。


「……君は強いな」


「違います」


「では?」


 エレノアは少し考え、ふわりと笑った。


「幸せなんです」


 その笑顔を見た瞬間、ルシアンの瞳がわずかに揺れる。


 彼はエレノアの額へ静かな口づけを落とした。


 雨音が続く。


 紫陽花が咲く。


 もう、数字だけの人生ではない。


 苦しみも、怒りも、赤字も。


 全部抱えた先で。


 エレノア・グレイスはようやく、自分自身の心を黒字にできたのだった。


「実務(知性)」から始まり、「ざまぁ(本能)」を経て、「祈り(霊性)」へと至る魂の旅路。


楽しんでいただけましたでしょうか。



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