ずれの発生
7:32。
目が覚める。
もう驚かない。
驚くのをやめた、という方が正しいかもしれない。
「……また同じか」
呟くと、天井のシミまで昨日と同じ位置にあることに気づく。
同じではなく、“固定されている”。
カーテンを開ける。
外の景色は普通だ。
ただ一つだけ違う。
電線の位置が、昨日より少し低い。
いや、違う。
“昨日の記憶のほうがズレている”気がする。
机を見る。
紙はない。
昨日あったはずの紙も、跡形もなく消えている。
「選べ」
あれは何だったのか。
そのとき、インターホンが鳴る。
反射的に体が動く。
玄関を開けると、そこに澪がいた。
昨日と同じ少女。
同じ顔。
同じ距離。
「おはよう」
「また来たのか」
「うん」
即答。
会話に迷いがない。
まるで“ここに来ることが決まっている存在”のようだ。
「今日は少し違うね」
澪が言う。
「何が」
「あなたの目」
「は?」
澪は一瞬だけ視線を逸らす。
そして、小さく言った。
「まだ壊れてない」
その言葉に、妙な引っかかりが残る。
並んで歩く。
昨日と同じ距離。
昨日と同じ速度。
だが、空気だけが少し重い。
「なあ」
「うん」
「昨日の紙、何だったんだ」
澪は少しだけ沈黙する。
「紙?」
「とぼけてるのか?」
澪は首を振る。
「違うよ」
「あなたの“昨日”には、まだそれが存在してない」
意味が分からない。
「どういうことだ」
澪は少しだけ立ち止まる。
そして言った。
「昨日と今日は、同じじゃない」
「でも、ずれているのは世界じゃない」
「あなたの方」
背筋が冷える。
教室。
入った瞬間、違和感が増える。
昨日と同じ席配置。
同じ声。
なのに“会話のタイミング”だけが一拍ずれている。
黒板を見る。
文字が一瞬だけ滲む。
「……今の見えたか?」
誰も反応しない。
ただ澪だけが、こちらを見ていた。
昼休み。
机に弁当を置く。
その横に、また澪がいる。
「ずっとここにいるのか」
「うん」
当然のように。
「他の教室とかは」
「関係ない」
「関係ない?」
澪は少しだけ視線を落とす。
「あなたがいる場所が、ここだから」
その言い方が妙に引っかかる。
「それってどういう意味だ」
澪は一瞬だけ間を置く。
そして珍しく、少しだけ困ったような顔をした。
「説明すると、たぶん壊れる」
その言葉が、冗談に聞こえない。
机を見る。
何もないはずだった。
だが一瞬だけ、紙があった気がした。
次の瞬間には消えている。
「……今の」
澪だけが、それを見ていた。
「出始めてるね」
「何がだ」
澪は小さく言う。
「選択」
その瞬間だった。
黒板の文字が消える。
一瞬だけ。
机の位置が入れ替わる。
誰かの声が、途中で巻き戻る。
「え?」
周囲は気づいていない。
「今のは……」
澪だけが、静かに言う。
「来るのが早い」
「何が」
澪は立ち上がる。
そしてこちらを見た。
その目は、初めて少しだけ揺れていた。
「ねえ」
「今日、まだ“戻ってない”? 」
「戻る?」
澪は一瞬だけ沈黙する。
そして、小さく言う。
「まだ間に合う」
教室の空気が一瞬だけ止まる。
誰も気づいていない“ズレ”。
澪は小さく息を吐く。
そして、初めて少しだけ笑った。
「よかった」
「まだ、壊れてないんだね」
その言葉のあと、
ほんの一瞬だけ。
彼女の表情が消えた。
そして静かに付け足す。
「じゃあ、まだ私もここにいられる」
少し間を置いて、続けるように言った。
「……あなたが“そう選ぶ限り”はね」




