最後の観測
■第13章
音が、遠い。
何かが鳴っている。
規則的な音。
――カチ。
――カチ。
どこから聞こえているのか分からない。
「……」
声を出そうとする。
出ない。
出たのかどうかも分からない。
目の前に、誰かがいる。
形は分かる。
輪郭は、はっきりしている。
それだけが、この空間で唯一確かなもの。
「……ねえ」
声が届く。
遅れない。
まっすぐ、届く。
その声だけが、意味を持つ。
「聞こえてる?」
頷こうとする。
動きが、途切れる。
途中で、何かが抜ける。
それでも。
見ている。
そこにいる。
それだけでいいと思う。
「……よかった」
小さく、息を吐く音。
少しだけ、震えている。
「まだ、間に合う」
何が。
考えようとして、止まる。
言葉が、続かない。
「……もういい」
その声が、少しだけ近づく。
距離の感覚が、曖昧になる。
でも。
近いと分かる。
「もう、選ばなくていい」
その言葉だけが、はっきり残る。
選ぶ。
その意味が、うまく掴めない。
でも。
何度も繰り返してきた気がする。
「ずっと、あなたに任せてた」
ゆっくりとした声。
一つ一つ、確かめるように。
「見てくれるから、ここにいられた」
その言葉で、何かが引っかかる。
胸の奥。
小さな違和感。
思い出せない。
でも。
大事な何か。
「……でもね」
少しだけ、間。
その“間”だけが、やけに長く感じる。
言いかけて、わずかに息を止める。
「それじゃ、だめだった」
静かな声。
否定。
やわらかくて、強い。
「あなたが消えたら」
言葉が、少しだけ揺れる。
「意味、なくなる」
意味。
何の。
分からない。
でも。
その言葉は、重い。
確かに重い。
「だから」
一歩、近づく。
距離が、消える。
目の前。
はっきりと見える。
その目。
その声。
それだけが、世界の全部みたいに。
「今度は、私が選ぶ」
その言葉。
はっきりと。
逃げ場がないくらい、はっきりと。
何かを言おうとする。
声が、出ない。
言葉が、形にならない。
ただ。
そこにいる。
それだけ。
「……ごめんね」
小さな声。
初めて聞く温度。
「ほんとは、一緒がよかった」
その言葉。
理解できないはずなのに。
胸の奥が、痛む。
理由は分からない。
でも。
確かに、痛い。
「でも、これは」
一瞬だけ、息を止める気配。
「私の番だから」
その瞬間。
世界が、静かに揺れる。
音が、消える。
光が、少しだけ歪む。
目の前の輪郭が、わずかに崩れる。
「……っ」
声にならない何か。
伸ばした手が、空を切る。
触れていたはずの感触が、消える。
代わりに。
何かが戻ってくる。
遅れていた音。
ぼやけていた視界。
途切れていた感覚。
全部が、少しずつ揃っていく。
「……あ」
声が、出る。
はっきりと。
遅れずに。
その代わりに。
目の前の存在が、薄くなる。
輪郭が、ほどける。
背景に溶けていく。
「……待て」
言葉が出る。
意味がある。
伝わるはずの言葉。
「行くな」
かすれる。
それでも、届く。
「まだ……分からない」
「……」
返事はない。
ただ。
その存在は、まだそこにいる。
ぎりぎりの形で。
「……見て」
最後の声。
かすれている。
でも、はっきりしている。
「ちゃんと」
一瞬だけ、形が戻る。
笑ったように見えた。
「今度は、忘れてもいい」
意味が、分かる。
分かってしまう。
「でも、それでいい」
その言葉と同時に。
完全に、消える。
音も。
光も。
気配も。
何も残らない。
ただ。
世界だけが、静かに整っていく。
カチ。
カチ。
時計の音。
今度は、はっきり聞こえる。
遅れない。
ずれない。
正しいリズム。
「……」
立っている。
教室。
いつもの場所。
ざわめき。
声。
全部、元通り。
机の上を見る。
何もない。
――はずだった。
ほんの一瞬だけ。
紙が見えた気がした。
白い紙。
そこに、何か書いてある。
だが。
読もうとした瞬間、消える。
「……今の」
誰も反応しない。
ただ。
胸の奥に、わずかな違和感が残る。
理由は分からない。
でも。
確かに、何かがあった。
失ったはずの何か。
思い出せない何か。
時計を見る。
7:33。
ほんの1分。
それだけが、ずれている。
「……」
なぜか分からない。
でも。
そのズレが、やけに気になった。
そして。
理由もなく、思う。
――もう一度。
その言葉が、誰のものだったのかだけは思い出せない。




