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自己の崩壊

■第12章

音だけがある。

――カチ。

――カチ。

見上げる。

時計はない。

それでも、音だけが鳴っている。

「……澪」

呼ぶ。

遅れて、声が届く。

自分の声が、少しだけ後から来る。

「……いま、ずれてる」

澪が言う。

はっきり聞こえる。

その声だけが、正しい。

一歩、近づく。

足音が、半拍遅れて響く。

床はない。

それでも、音だけがついてくる。

手を伸ばす。

触れる。

感触が、あとから来る。

遅れて、重なる。

「……っ」

気持ち悪い。

だが、離さない。

触れている間だけ。

澪の輪郭は、揺れない。

「やめて」

澪が言う。

今度は、すぐに届く。

「そこまでしなくていい」

首を振る。

その動きが、遅れて追いつく。

「……消えるだろ」

言葉にする。

少しだけ、考えてから出た気がする。

いや。

“考えた記憶”が、抜けている。

「……消えない」

澪が言う。

だが、その言い方は弱い。

確信がない。

分かっている。

これは――

戻らないやつだ。

胸の奥で、はっきりと理解する。

「……なあ」

言いかける。

何を言おうとしたのか、出てこない。

言葉が、途中で抜ける。

「……俺、」

続かない。

空白だけが残る。

「……どうしたの」

澪の声。

はっきりしている。

それだけが救いみたいに響く。

「……名前」

やっと出た言葉。

それだけ。

「……思い出せない」

口にした瞬間、確定する。

探しても、何もない。

引っかかりもない。

最初から無かったみたいに。

「……っ」

澪の表情が崩れる。

初めて、はっきりと。

「やめて」

もう一度。

今度は強い。

「それ以上やったら、戻れなくなる」

もう、戻れない。

さっき理解した。

でも。

「……でも」

言葉が出る。

今度は止まらない。

「消えるだろ」

同じ言葉。

繰り返す。

意味だけが残る。

「……私が?」

澪が聞く。

頷く。

その動きが、少し遅れる。

「……うん」

それだけで十分だった。

少し間があく。

その“間”が、どこにあったのか分からない。

時間の感覚が、抜けている。

澪が、ゆっくりと首を振る。

「……違う」

短い否定。

「それじゃ、意味ない」

意味。

何の。

考えようとして、止まる。

思考が、滑る。

掴めない。

「……いい」

口が勝手に動く。

「意味なんて、後でいい」

言ったあとで、少し驚く。

そんなことを考えていたのか。

もう分からない。

ただ。

目の前にいる。

それだけが、はっきりしている。

澪の輪郭。

声。

目。

それ以外は、全部薄い。

「……見てて」

自分の声。

今度は、遅れない。

澪だけが基準になっている。

その瞬間。

自分の手が、少し透ける。

指先。

輪郭が、背景に溶ける。

「……っ」

息が止まる。

見ているのに。

触れているのに。

自分の方が、削れていく。

「……減ってる」

澪が、小さく言う。

それだけで分かる。

何が、とは言わない。

言わなくても分かる。

「……いい」

また言っている。

同じ言葉。

「……それでいい」

止める理由がない。

もう、ない。

「よくない!」

澪が叫ぶ。

初めての強さ。

空間が、わずかに震える。

「そんなの、違う」

「それじゃ、残らない」

残る。

何が。

考えようとして、また滑る。

「……でも」

言葉が途切れる。

続かない。

代わりに。

視界が、少しだけ暗くなる。

いや。

自分の“見えている範囲”が、減っている。

外側から、削られている。

「……っ」

息が荒くなる。

その音も、少し遅れて聞こえる。

それでも。

澪は、はっきり見える。

それだけで十分だ。

そう思っている自分がいる。

「……やめて」

澪の声が、近い。

「もういいから」

首を振る。

その動きが、途中で消えかける。

「……まだ」

何を言うつもりだったのか、分からない。

でも。

言わなくてもいい。

分かっている。

手を、強く握る。

その感触だけは、残る。

「……ここにいろ」

命令みたいな言葉。

自分でも少し驚く。

澪が、息を止める。

「……」

何も言わない。

ただ、見ている。

その目が、揺れる。

次の瞬間。

澪が、小さく言った。

「……分かった」

短い答え。

その声だけが、確かに残る。

静かになる。

何もない空間。

音も、ほとんどない。

ふと、視線が落ちる。

机。

あったはずの場所。

そこに、紙がある。

白い。

何か、書いてある。

手を伸ばす。

触れる。

感触が、遅れてくる。

紙を持ち上げる。

見る。

文字がある。

読めない。

形だけがある。

意味が、抜けている。

「……」

何て書いてあるのか。

分からない。

でも。

それが重要だということだけは、分かる。

胸の奥が、ざわつく。

思い出せない何か。

読めない何か。

そのとき。

澪の声が、すぐそばで響く。

「……もういい」

やけに、はっきりしている。

「今度は」

少しだけ間。

「私が選ぶ」

その言葉だけが、残る。


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