世界の崩壊
■第11章
目が覚める。
時計を見る。
7:32。
揺れていない。
だが、視線を外す。
次の瞬間。
かすかに、音が遅れる。
一拍。
ほんのわずか。
「……」
もう一度、時計を見る。
針は動いている。
正しいはずの速度で。
だが。
見ていない間に、何かが変わっている。
そんな感覚だけが残る。
カーテンを開ける。
外はいつも通りの朝。
鳥の声。
車の音。
ただ。
その音が、どこか遠い。
薄い。
「……気のせいか」
呟く。
返事はない。
当たり前だ。
それでも。
一瞬だけ、返ってくる気がした。
視界の端。
何かが揺れる。
反射的に、そちらを見る。
――いる。
教室。
窓の近く。
まだ誰もいないはずの時間。
その場所に、澪が立っている。
今度は、はっきりしている。
輪郭も、表情も。
「……澪」
呼ぶ。
すぐに反応が返る。
「……見てる」
声が届く。
途切れない。
昨日よりも、明確に。
一歩、近づく。
距離が縮まる。
消えない。
さらに一歩。
澪の姿が、よりはっきりする。
「……来て」
小さく言われる。
迷わず、近づく。
手を伸ばす。
触れる寸前。
空気が、わずかに歪む。
そのまま、指先が触れる。
――消えない。
「……っ」
確かな感触。
冷たくも温かくもない。
それでも、確かに“そこにある”。
澪の輪郭が、一気に安定する。
ノイズが消える。
「……今なら」
澪が、はっきりと言う。
その声は、もう途切れない。
「見てるだけじゃ、足りない」
昨日と同じ言葉。
だが、意味が違う。
「ちゃんと、ここにいて」
その瞬間。
背後で、何かが落ちる音がした。
振り返る。
机。
倒れている。
だが。
その周囲が、歪む。
一瞬。
視界が白くなる。
机も、床も、全部が“抜ける”。
「……っ!?」
反射的に、澪を見る。
次の瞬間。
世界が戻る。
教室。
机。
音。
すべて。
だが、呼吸が乱れる。
今のは、ただの違和感じゃない。
「……何だ今の」
呟く。
返事はない。
さっきまで聞こえていた外の音も、消えている。
静かすぎる。
異様なほどに。
もう一度、澪を見る。
その瞬間。
遠くで、誰かの声がする。
廊下の足音。
だが。
視線を外す。
その瞬間。
音が、途切れる。
「……」
もう一度、澪を見る。
音が戻る。
人の気配も。
「……そういうことか」
理解が追いつく。
澪を見る。
澪に触れる。
その間だけ。
“世界が維持される”。
いや、違う。
澪を見るほど。
それ以外が、削れる。
「……削れてる」
思わず、口に出る。
澪が、小さくうなずく。
「……うん」
短い肯定。
それだけで十分だった。
「……これ」
言葉が続かない。
何を選んでいるのか。
もう分かっている。
それでも。
手を離さない。
視線も逸らさない。
その状態で、周囲を見る。
教室。
机の輪郭が、ぼやける。
壁の色が、薄くなる。
窓の外が、白くなる。
まるで、塗りつぶされていくように。
「……おい」
誰かの声がした気がする。
振り向く。
そこには、誰もいない。
いや。
“いたはずの位置”だけが残っている。
名前が、出てこない。
誰だったのか。
思い出せない。
「……っ」
息が詰まる。
――離せば、戻るかもしれない。
頭の奥で、そんな考えがよぎる。
この手を離せば。
視線を逸らせば。
全部、元に戻るかもしれない。
教室も。
人も。
日常も。
「……」
一瞬だけ、迷う。
ほんの一瞬。
その間に。
澪の輪郭が、わずかに揺れる。
「……っ」
すぐに、握り直す。
視線を固定する。
「……離さない」
はっきりと、言う。
その言葉に、澪の目が揺れる。
「……うん」
小さく、返ってくる。
その瞬間。
教室の音が、完全に消える。
振り返る。
何もない。
机も。
黒板も。
人も。
全部、消えている。
残っているのは。
澪だけ。
そして、自分。
「……はは」
乾いた笑いが漏れる。
「分かりやすいな」
もう、誤魔化せない。
これは。
“選んでいる”。
世界か。
澪か。
そのとき。
澪が、静かに言った。
「……選んでるね」
否定できない。
言葉が出ない。
ただ。
そのまま、澪を見続ける。
それしか、できない。
そして。
何もない空間の中で。
――カチ、と音がする。
視線を動かさないまま、分かる。
時計。
音だけが、残っている。
だが。
針は、どこにもない。
それでも。
時間だけが、鳴っている。




