時間の再定義
■第10章
目が覚める。
時計を見る。
7:32。
今度は、揺れていない。
きっちりと、その位置に収まっている。
「……戻ったのか」
呟く。
だが。
視線を外した瞬間。
背後で、かすかに“音”がした。
振り向く。
壁の時計。
その針が、一瞬だけ揺れる。
7:32と7:33の間で、わずかに迷う。
見ている間だけ、固定される。
そんな感覚。
「……やっぱり」
確信に近い違和感。
昨日のことを思い出す。
触れた感覚。
消えた瞬間。
そして――
「……見るんじゃない」
小さく、呟く。
「選んでるんだ」
その言葉に、自分で少しだけ息が詰まる。
視界の端で、何かが揺れた。
ゆっくりと、そちらを見る。
教室の隅。
窓の近く。
誰もいないはずの場所。
だが。
そこに、いた。
輪郭が曖昧なまま。
それでも確かに。
「……澪」
名前を呼ぶ。
その瞬間。
輪郭が、少しだけ濃くなる。
顔が、分かる。
こちらを見ている。
だが。
一瞬だけ。
視線を逸らす。
その瞬間。
消える。
「……っ」
すぐに見直す。
同じ場所。
また、現れる。
今度は少しだけ早い。
息が詰まる。
「……いる」
思わず声に出る。
澪は何も言わない。
ただ、こちらを見ている。
その目は、昨日よりもはっきりしていた。
一歩、近づく。
澪も、わずかに動く。
距離が縮まる。
だが。
ほんの一瞬。
瞬きをする。
その間に。
消える。
「……くそ」
すぐに目を開ける。
同じ場所に、戻る。
だが、さっきより薄い。
「……今、消えた」
澪が、初めて口を開く。
声は途切れ途切れ。
ノイズが混じる。
それでも、確かに届く。
「……瞬きで」
息が詰まる。
「……そういうことか」
理解が追いつく。
見ている間だけ、存在できる。
目を離せば、消える。
瞬きをすれば、その一瞬だけ消える。
「……面倒なルールだな」
呟く。
澪は小さく首を振る。
「……違う」
言葉が、少し欠ける。
「……今の私が……これ」
意味が完全には繋がらない。
それでも。
伝わるものはある。
「見てる間だけ、ここにいられる」
澪が、はっきりと言う。
その言葉だけは、崩れない。
教室の音が遠くなる。
周りの人間は、何も気づいていない。
誰も澪を見ていない。
見ているのは、自分だけだ。
「……じゃあ」
息を吸う。
「俺が見てれば、お前は消えないのか」
澪は、少しだけ間を置く。
そして、静かに言う。
「……今は」
その“今は”が、重い。
完全ではない。
安定していない。
それでも。
確かに、ここにいる。
「……目、逸らさない」
自分でも驚くほど、自然に出た言葉だった。
澪の目が、わずかに揺れる。
「……ずっと?」
その問いに、少しだけ詰まる。
答えられない。
それでも。
「……できるところまで」
それが今の限界だった。
澪は、ほんの少しだけ笑った。
だがその表情も、完全ではない。
ノイズが混じる。
崩れかける。
「……それでいい」
小さく、そう言う。
その瞬間。
教室の時計が、一度だけ止まる。
誰も気づかない。
だが。
二人だけが、同時にそれを見る。
針が、わずかに逆に動く。
一秒だけ。
すぐに戻る。
「……まだ、揃ってない」
澪が呟く。
「何がだ」
問いかける。
だが、返事はない。
その代わり。
澪の輪郭が、また少し薄くなる。
視線を逸らしていないのに。
「……おい」
一歩近づく。
だが、距離が縮まるほどに。
逆に不安定になる。
ノイズが強くなる。
「……っ」
手を伸ばす。
触れられない。
触れる前に、形が崩れる。
「……まだ、足りない」
澪が言う。
その声は、ほとんど消えかけている。
「何がだよ」
返す。
だが、その言葉も途中で切れる。
澪は、最後にこちらを見る。
その目だけが、はっきりしている。
「……見てて」
小さく。
それだけ言う。
次の瞬間。
ふっと、消える。
完全に。
視界の中から。
残るのは、空間だけ。
何もない場所。
「……」
しばらく動けない。
見ていたはずなのに。
それでも、消えた。
「……足りない」
小さく、呟く。
視線を落とす。
机の上。
何もない。
だが。
ほんの一瞬だけ。
影が揺れる。
すぐに消える。
「……見るだけじゃ」
言葉が、そこで止まる。
もう分かっている。
答えは、まだ出ていない。
だが。
一つだけ確かだ。
“見るだけじゃ足りない”。




