観測者の自覚
■第9章
目が覚める。
時計を見る。
7:32。
……ではない。
7:32と7:33の間で、針がわずかに揺れている。
進みきらない。
戻りきらない。
「……なんだよ」
しばらく見ていると、ようやく7:32に落ち着く。
だが、その“決まり方”に違和感が残る。
最初からそこにあったわけじゃない。
“選ばれた”みたいに、そこに収まった。
目を離す。
その瞬間。
背後で、かすかに音がした気がした。
振り向く。
誰もいない。
だが。
壁の時計のガラスに、何かが映る。
一瞬だけ。
黒い髪。
「……」
振り向く。
いない。
もう慣れているはずなのに、心臓が強く鳴る。
「……いるんだろ」
声に出す。
返事はない。
当然だ。
それでも。
足が動く。
時計に近づく。
ガラスを見る。
何も映っていない。
自分だけだ。
――違う。
見えていないだけだ。
そう思った瞬間。
ガラスの奥で、影が揺れる。
今度ははっきりと分かる。
“いる”。
「……お前」
声をかける。
その瞬間。
影が、わずかに近づく。
ガラス越しに。
こちらへ。
息が詰まる。
手を伸ばす。
触れれば、分かる気がした。
――違う。
「……もう、見逃さない」
自分でそう決める。
逃げるんじゃない。
“選ぶ”。
指先が、ガラスに触れる。
冷たい。
だが、その奥。
同じ位置に、もう一つの手がある。
重なる。
触れていない。
それでも。
“触れた感覚”だけが伝わる。
「……澪、なのか」
初めて、名前が出る。
その瞬間。
世界が、止まる。
音が消える。
空気が固まる。
時計の針が、完全に静止する。
ガラスの中の少女が、はっきりと姿を持つ。
こちらを見ている。
その目は、強く揺れていた。
「やっと……」
声が、重なる。
同時に言った気がした。
だが、意味が繋がらない。
少女の口が動く。
音は遅れて届く。
「来てくれた」
「……違う」
自分の声と、噛み合わない。
会話にならない。
それでも。
距離だけが、確かに縮まっている。
「お前、何なんだよ」
問いかける。
少女は答えない。
ただ、こちらを見たまま。
ゆっくりと首を振る。
「……まだ」
その言葉だけが、聞き取れる。
次の瞬間。
時計の針が、逆に動く。
一秒。
二秒。
三秒。
世界が、軋む。
教室の景色が、歪む。
机の位置が揺れる。
音が巻き戻る。
「……っ」
手が離れない。
離したくないのか、離れないのか分からない。
ガラスの向こうで、少女の姿が崩れ始める。
ノイズのように、形が乱れる。
「待て……!」
思わず声を上げる。
その瞬間。
少女が、はっきりとこちらを見る。
そして。
初めて、強い感情を乗せて言う。
「まだ、消えたくない」
胸の奥が、強く締め付けられる。
「じゃあ、なんで――」
言いかける。
その言葉を、少女が遮る。
ノイズに混じった声。
それでも、はっきりと届く。
「あなたが見た世界だけが、本物になる」
一瞬、意味が止まる。
だが。
理解だけが、先に来る。
選ばれたものだけが残る。
見なかったものは――
少女の輪郭が、崩れる。
声も、途切れる。
最後に。
ほんのわずかに、口が動く。
何かを言った気がした。
だが、聞き取れない。
次の瞬間。
完全に消える。
同時に。
世界が動き出す。
音が戻る。
時計が進む。
7:32。
何事もなかったように。
手は、空を掴んでいる。
触れていたはずの感覚だけが残る。
「……くそ」
言葉が漏れる。
教室は普通だ。
誰も気づいていない。
何も起きていない。
だが。
さっきまで、確かにいた。
視線が、隣の席に向く。
空席。
何もない。
だが。
今度は、迷わない。
「……見る」
小さく、そう呟く。
その瞬間。
机の表面に、ほんのわずかに。
“影”が戻る。




