第9話 黒字の芽と、王都の綻び
全70話完結予定です。毎日5話、7:10/12:10/17:10/20:10/22:10に更新します。
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季節が一つ、めぐった。
辺境の月々の帳尻は、ついに黒字の芽を出し始めた。関所の税が戻り、無駄が消え、修繕した水路が畑を潤し、休眠していた鉱山も、ゆっくりと動き出していた。まだ借金の首輪は重いままだったが、辺境は、もう「死にかけの土地」ではなくなっていた。
「奥方様! 見てください、これ!」
マレナが、頬を紅潮させて帳場から駆けてきた。宿場町の帳簿を、誇らしげに掲げている。
「宿の泊まり客、先月より三割も増えたんです! 関所が安くなったって噂で、商人がこっちの街道を通るようになって!」
「よく数えたわね」わたしは、その帳簿を覗き込んだ。数字は、確かに、人の流れが変わったことを語っていた。関所の税を下げた狙いが、当たっている。安くして人を呼び、総額で稼ぐ。人が集まれば、宿が潤い、町が潤い、税が増える。
「あなたのおかげで、町の動きが手に取るようにわかるわ」
「えへへ。あたし、役に立ってますか?」
「立っているわ。とても」
マレナは、飛び上がって喜んだ。その素直な喜びように、こちらの気持ちまで、少し軽くなる。
「あのね、奥方様」マレナが、声をひそめた。「町のみんな、言ってるんです。辺境が、変わったって。前は、若い人がどんどん出ていってたのに、最近は、戻ってくる人もいるんです。仕事が、あるからって」
人が、戻ってくる。その一言が、どんな黒字の数字より、深く胸に届いた。数字は、結果でしかない。本当に変わったのは、この土地に、もう一度、明日を数える気持ちが、戻ってきたということだ。人は、明日が見えるから、留まる。明日が見えないから、去る。
「戻ってきた人たちの名も、帳簿に加えましょう」わたしは言った。「誰が、どこで、何をしているか。人も、大切な数字だから」
「奥方様って、なんでも数えますね」マレナが、くすくす笑った。
「数えられるものは、守れるもの。だったわね」
「はい! あたしの、座右の銘です!」
たった数か月前まで、飢えと諦めに沈んでいた土地に、笑い声が根づき始めている。それが、何より、確かな手応えだった。
だが、その日の午後。城に、一通の手紙が届いた。差出人は、王都の商人筋。マレナの宿を通じて、辺境まで流れてくる噂話の、まとめのようなものだった。
そこに、見慣れた家の名が、いくつも並んでいた。
――テオドール伯爵家、支払い滞る。ダルク子爵家、社交界での評判に陰り。
わたしは、その行を、二度読んだ。
去り際に、リオネルに告げた、三百二十ゴルドの綻び。父に告げた、三月後の給金。あのとき、まだ小さかった数字たちが、いまや、目に見える形で、家を蝕み始めている。誰も縫わなかった綻びが、静かに、けれど確実に、裂けていく。
「王都の、実家か」ヴァレンが、手紙を覗き込んだ。「……つらいか」
「いいえ」わたしは、正直に答えた。「不思議と、何も感じません。予定通り、としか」
それは、強がりではなかった。ただ、数字が告げていたことが、その通りになっただけ。悲しむには、あの家に、悲しむだけの何かを、わたしはもう、残していなかった。
「ただ」わたしは、手紙をたたんだ。「少し、怖くはあります。数字は、いつも、正直すぎるから。わたしがいなくなれば、あの家がどうなるか。見えていたのに、止められなかった。……止める立場に、いなかったから」
「あんたのせいじゃない」ヴァレンが、短く言った。「縫う手を、追い出したのは、向こうだ」
その言葉が、思いがけず、胸の奥にしみた。わたしは、少しだけ、うつむいた。誰かが、わたしの代わりに、怒ってくれる。それが、こんなにも、心をほどくものだとは、知らなかった。
「ありがとうございます」
今度は、つかえずに言えた。ヴァレンは、ぶっきらぼうに「ああ」とだけ返して、目をそらした。その耳が、少し赤かった気がしたが、たぶん、夕日のせいだろう。
その夜、わたしは黒字の芽を数えながら、同時に、遠い王都の崩壊を思った。片方は、わたしが縫った土地。片方は、わたしが縫うのをやめた家。同じ数字の理が、正反対の結末を、静かに描き出していた。
そして、ふと思った。王都の家々を蝕んだ「借金」もまた――もし、あの商会の仕業だとしたら。辺境と、王都。離れた場所の綻びが、やはり、一本の糸で。
考えすぎだろうか。けれど、数字は、偶然を嫌う。同じ商会の名が、王都でも、辺境でも、傾いた家々の陰に、繰り返し現れる。それを偶然と呼ぶには、あまりに、几帳面な繰り返しだった。
もし、そうだとしたら。ハルバ商会は、辺境だけを狙っているのではない。飢えた土地に、傾いた家に、優しい顔で近づいては、返せない金を貸し、時が来れば、まるごと呑み込む。それを、大陸のあちこちで、静かに、繰り返している。
だとすれば、これは、辺境一つの問題ではない。けれど、今のわたしにできるのは、まず、この辺境を守り抜くことだけだ。足元の一つの土地も守れずに、大きな絵図を語っても、意味がない。数字は、いつも、目の前の一列から始まる。
翌朝、城門から、ある報せが届いたとき、その予感は、形を持ち始めた。
「奥方様。ハルバ商会から、使者が来るそうです。近々、ご挨拶に、と」
ご挨拶。その柔らかい言葉の裏に、どんな数字が隠れているのか。柔らかい言葉ほど、裏で計算されているものだと、わたしは知っている。優しさを装った借金が、この辺境を、ここまで痩せさせたのだから。
わたしは、静かに、身構えた。相手が動くなら、こちらも、迎える準備をするだけだ。震える必要は、ない。こちらの帳簿は、正直だ。正直な者は、どんな相手の前でも、背筋を伸ばしていられる。




