第8話 返せない借金の、作り方
全70話完結予定です。毎日5話、7:10/12:10/17:10/20:10/22:10に更新します。
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ドレクの一件で、辺境の懐から漏れる血は、ほとんど止まった。関所の税が戻り、無駄な出費が消え、着服の穴もふさがった。城の月々の帳尻は、少しずつ、けれど確かに、明るい方へ傾き始めていた。
だが、最も大きな傷は、まだ手つかずだった。あの借金――ハルバ商会への、利払いだ。
わたしは、借用証の束を、改めて広げた。今度は、一枚ずつ、条文の隅まで読み込んでいく。読めば読むほど、背筋が冷えた。
「ギース。この借金、最初はいくらでしたか」
「たしか、先代がお借りになったのは、そう多くない額と……」
「ええ。元本は、決して法外ではありません。おかしいのは、利率と、取り立ての取り決めです」
利率は、相場の三倍近い。しかも、返済が一度でも遅れると、遅れた分にさらに高い利がつき、雪だるまのように膨らむ仕組みになっていた。加えて、担保の条項。返済が滞れば、鉱山と関所――辺境の稼ぎ頭を、まとめて商会が接収できる。
「これは」わたしは、確信をこめて言った。「返させるための借金では、ありません。返せなくするための、借金です」
ヴァレンが、眉を寄せた。「どういう意味だ」
「まっとうな商人は、相手が返せる範囲で貸します。返してもらって、利を得るのが商いですから。でも、この契約は違う。わざと、返せない条件にしてある。狙いは、利ではなく――担保です。辺境の、鉱山と関所そのものを、手に入れること」
言葉にすると、その悪意の輪郭が、はっきりと見えた。飢えに苦しむ辺境に、優しい顔で金を貸し、感謝とともに首輪をかける。そして、時が来れば、首輪を引いて、土地ごと奪う。
「兄は」ヴァレンの声が、低くかすれた。「これに、気づいていたのか」
「たぶん、途中で気づかれたのだと思います」わたしは、返済の記録を指でたどった。「ある時期から、無理な返済をして、必死に元本を減らそうとした跡があります。でも、利のほうが速くて、追いつかなかった。……お兄様は、この首輪を外そうと、もがいておられたんです。最後まで」
「証拠は、あるのか」ヴァレンが、絞り出すように言った。「兄が、はめられたという、証拠は」
「この契約書そのものが、半分は証拠です」わたしは言った。「これほど一方的に不利な条件を、慎重な当主が、正気で呑むはずがない。呑まされた背景に、何かがあった。ただ――それを、公の場で通用する形にするには、もっと材料が要ります。当時、ハルバがどんな情報を先代に流したのか。どんな取り立てを迫ったのか。その裏付けが」
「集められるか」
「時間はかかります。でも、こういう仕組みを作る者は、必ず、同じ手を、他でも使っています」わたしは、静かに確信していた。「一度きりの悪事なら、痕跡は消せる。でも、同じ罠を何度も仕掛ければ、必ず、どこかに、同じ形の綻びが残る。それを、一つずつ、拾い集めればいい」
部屋に、沈黙が落ちた。ヴァレンは、兄の名が刻まれた借用証を、じっと見下ろしていた。その横顔に、怒りと、悔いと、遅れてきた理解が、混じっていた。
「兄は、俺に何も言わなかった。ただ、無理をして、倒れた。俺は、それを、ただの経営の失敗だと……放漫な兄が、金を使いすぎたのだと、そう思っていた」
「違います」わたしは、はっきりと言った。「お兄様は、無能ではありません。むしろ、逆です。慎重な方が、領民を飢えさせないために、あえて危ない橋を渡った。そして、渡り切れなかった。それだけです」
ヴァレンが、目を伏せた。長いあいだ兄に着せていた、放漫という汚名。それが、間違いだったと知る顔だった。
「……すまない、兄上」
小さな、けれど深い声だった。わたしは、何も言わなかった。ここで数字の話を重ねるのは、違う気がした。悼む時間は、帳簿には書けない。
しばらくして、ヴァレンが顔を上げた。
「アデル。この首輪は、外せるか」
「外します」わたしは、迷わず答えた。「ただし、正面から返すだけでは、間に合いません。相手は、返させないつもりで作った契約です。だから――こちらも、正面からは戦いません。相手の狙いを、逆に、利用します」
「逆に、利用する」
「はい。ただ、そのためには、もっと辺境の力を蓄える必要があります。鉱山。交易。産業。首輪を引かれる前に、こちらが、引かれても平気な体を作る。急ぎましょう」
「ひとつ、約束します」わたしは、ヴァレンを見て言った。「お兄様に着せられた汚名は、必ず、晴らします。放漫な当主だった、という嘘を。数字で、本当のことを、明るみに出します。それが、帳簿を読む者の、できる弔いです」
ヴァレンは、しばらく、何も言わなかった。それから、ゆっくりと、頭を下げた。辺境伯が、流れ者の妻に、頭を下げる。それが、どれほどのことか、わたしにもわかった。
「……頼む。兄の名を、返してやってくれ」
「はい」
顔を上げたヴァレンの目は、少し、赤かった。武人の涙は、めったに見られるものではない。わたしは、気づかないふりをして、借用証に目を戻した。悼む時間を、そっとしておくことも、隣にいる者の役目だと思ったから。
その夜、わたしは遅くまで、借用証を書き写した。一枚残らず、正確に。相手が返せない罠を作ったのなら、その罠の設計図を、こちらが誰よりも正確に、手に入れてやる。罠を仕掛けた者は、たいてい、自分の罠の細部を、忘れる。けれど、記録は、忘れない。
まっとうでない相手に、まっとうな手だけでは勝てない。けれど、数字は、どんな悪意の前でも、正直だ。相手が仕組んだ罠にも、必ず、綻びがある。わたしは、その一点を、探し始めていた。




