第7話 合わない数字は、合わない
全70話完結予定です。毎日5話、7:10/12:10/17:10/20:10/22:10に更新します。
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「警備の委託費」を握っていたのは、ドレクという名の、初老の会計役人だった。
先代の頃から城の財布を預かってきた男で、ギースいわく、「気難しいが、長く仕えた者」だという。だが、記録は正直だった。彼が管理する項目だけ、決まって数字の帳尻が合わない。しかも、合わない分は、いつも同じ方向――誰かの懐が、少しずつ膨らむ方向へ、ずれていた。
はじめ、ギースは信じたがらなかった。「ドレクは、先代からの、古い者でございます。気難しいところはありますが、まさか、着服など……」
「疑いたくないお気持ちは、わかります」わたしは言った。「でも、疑うのは、わたしではありません。数字です。彼の項目だけ、いつも、同じ方向にずれている。偶然なら、ずれる向きは、ばらばらになるはずです」
古くからの者ほど、疑いにくい。だからこそ、そこに穴が生まれる。信頼は、大切なものだ。けれど、信頼を、確かめないことの言い訳にしてはいけない。母が、そう教えてくれた。信じることと、確かめることは、両立する。むしろ、確かめるからこそ、安心して信じられる。
わたしは、彼を糾弾しなかった。証拠を突きつけて、追い詰めもしなかった。ただ、彼にこう頼んだだけだ。
「ドレクさん。来月から、支出の記録の付け方を、少し変えます。すべての支払いに、受け取った人の署名を、いただくことにします。警備の委託費も、実際に警備をした方の署名を」
ドレクの顔が、わずかにこわばった。「……それは、手間が増えるだけでは。長年、この付け方で、問題なく回ってきましたが」
「問題は、見えていなかっただけかもしれません」わたしは穏やかに言った。「新しいやり方で、何も出てこなければ、それが一番いいんです。潔白の証明になりますから」
ドレクは、断れなかった。断れば、それ自体が、疚しさの証明になる。彼は渋々、承知した。
そして、翌月。
署名を求められた「警備の委託費」の受取人は、どこにも存在しなかった。実体のない警備。架空の受取人。ドレクは、署名を偽造しようとして、筆跡の不一致から、自らの手で、すべてを露わにした。追い詰められた彼は、言い逃れを重ね、その一つ一つが、新たな綻びを生んでいった。嘘は、次の嘘でしか支えられない。そうして、支えきれなくなる。
わたしは、最後まで、彼を責める言葉を、一つも口にしなかった。ただ、数字を並べた。
「わたしは、罠を仕掛けていません。合わない数字を、合わないと申し上げただけです。あとは、ドレクさんが、ご自分で」
ドレクは、へたり込んだ。ヴァレンが彼の処分を告げるあいだ、老役人は、ただ、机の上の署名欄を見つめていた。空白のままの、受取人の名を。
「見事なものだ」あとで、ヴァレンが静かに言った。「あんたは、一度も、あの男を責めなかった。なのに、あの男は、自分で崩れた」
「わたしが崩したのではありません」わたしは首を横に振った。「嘘は、ずっと、支えるのに力が要ります。本当のことは、そこにあるだけでいい。だから、正しい記録を置けば、嘘のほうが、勝手に疲れて、倒れるんです」
「静かなものだな」ヴァレンが、感心とも、少しの怖れともつかない声で言った。「怒鳴りもせず、脅しもせず。ただ、正しい紙を、机に置く。それだけで、大の男が、自分から崩れていく」
「怒鳴れば、相手は身構えます。脅せば、恨みが残ります」わたしは答えた。「でも、事実は、身構えようがありません。恨む相手も、いません。恨むとしたら、嘘をついた、自分自身だけ。……だから、一番、静かに終わるんです」
それは、王都で学んだことでもあった。声の大きい者が、正しいわけではない。むしろ、声を張り上げるのは、事実を持たない者のほうだ。本当に強い札は、机に置くだけでいい。
ヴァレンは、しばらくわたしを見ていた。それから、ふっと、口元をゆるめた。
「敵に、回したくない女だな」
「味方でいるほうが、お得ですよ」
思わず出た軽口に、自分で驚いた。誰かの前で、こんなふうに言葉が軽くなるのは、いつぶりだろう。ヴァレンが、低く笑った。その笑い方が、少しだけ、癖になりそうだった。
その夜、ドレクが着服していた金の流れを、わたしは最後まで追った。城から抜かれた金は、彼一人の懐に収まってはいなかった。一部は、確かに彼のものになっていた。だが、より大きな流れは、城の外へ――ある商会へと、注がれていた。
見覚えのある名だった。関所の税を吸っていた、あの名。辺境に鉛の首輪をかけた、あの名。
ハルバ商会。
城の中の不正さえ、この商会の掌の上だったのかもしれない。ドレクは、ただの一人の役人だと思っていた。けれど、彼が抜いた金の行き先を見れば、彼もまた、大きな流れの、末端の一滴に過ぎなかった。城の内側に、外の商会の手が、そっと差し込まれていた。
わたしは、その流れを、紙に書き出してみた。関所から、城の会計から、そして先代の借金から。三本の細い川が、どれも、同じ海へと注いでいる。
「一つ、二つなら、偶然と言えます」わたしは、誰にともなくつぶやいた。「でも、三つとなると――これは、地図です。誰かが、この辺境から、いくつもの管を差し込んで、静かに、血を吸い続けてきた地図」
灯りの下で、静かに息を吐いた。相手は、思っていたより、ずっと深く、この辺境に根を張っている。けれど、根が深いということは、それだけ、たどれる道も多いということだ。管が多ければ、その分、どこかで、必ず、数字が合わなくなる。
わたしは、その地図を、丁寧に折りたたんで、机の奥にしまった。まだ、誰にも見せる時ではない。けれど、いつか、この一枚が、辺境を縛る首輪を、断ち切る鍵になる。そんな予感が、はっきりと、あった。




