第69話 良い数字です
それから、数年の、月日が、流れた。
辺境ヴェント領は、大陸でも、指折りの、健全な、交易地へと、成長していた。かつて、飢えと、諦めに、沈み、死にかけていた、痩せた辺境。それが、いまや、人と、物が、絶えず、行き交う、活気に、満ちた、豊かな、土地に、なっていた。
わたしは、ある、よく晴れた、朝、賑わう、市場を、歩いていた。かつて、品薄で、値の、吊り上がった、あの、市場。いまは、あらゆる、品が、あふれ、売り手と、買い手の、明るい、声が、飛び交っていた。子どもたちが、走り回り、老人が、日向で、笑っている。飢えの、影は、もう、どこにも、なかった。
「奥方様!」
聞き慣れた、声に、振り向くと、マレナが、駆けてきた。すっかり、貫禄の、ついた、姿だ。いまでは、宿場町の、まとめ役として、町の、切り盛りを、任される、立派な、顔役に、育っていた。
「今月の、帳簿、持ってきました!」マレナは、誇らしげに、帳面を、掲げた。「宿も、店も、大繁盛です。あたし、もう、この町の、数字なら、目を、つぶってでも、言えますよ」
「頼もしいわね」わたしは、微笑んだ。かつて、頼りない、看板娘だった、この子が、いまや、町の、数字を、守る、担い手だ。数字を、読める人が、辺境に、一人、また一人と、育っている。それが、何より、確かな、辺境の、未来だった。
「あのね、奥方様」マレナが、少し、照れたように、言った。「あたし、この前、町の、若い子たちに、数字の、読み方を、教え始めたんです。奥方様が、あたしに、教えてくれたみたいに。……あたしみたいな、そろばんも、ろくに、できなかった子でも、教われば、読めるように、なる。だから、次は、あたしが、教える番かなって」
その言葉に、わたしは、胸が、熱くなった。手から、手へ。わたしが、マレナに、渡したものが、いま、マレナから、次の、子へと、渡っていく。数字を、読む力が、この土地に、根を、張り、広がっていく。それは、わたし一人では、決して、成し得なかった、いちばん、確かな、実りだった。
「立派に、なったわね」わたしは、そっと、言った。「あなたに、教えて、本当に、良かった」
マレナが、照れくさそうに、笑った。その、笑顔が、数年前と、少しも、変わらないのが、嬉しかった。
ギースは、もう、城の、帳簿方の、役を、若い者に、譲り、穏やかな、隠居暮らしを、始めていた。長年、赤字の、帳面を、腹を、切る思いで、つけ続けてきた、老臣。その、労を、ねぎらうように、辺境は、彼に、安らかな、老後を、贈っていた。時折、城に、顔を、出しては、若い、帳簿方に、昔の、知恵を、授けている。その顔は、いつも、穏やかだった。
ロザリンドは、王都の、会計院で、ますます、頭角を、現していた。だが、折に、触れて、辺境を、訪れてくれた。盟友として。正しい記録を、信じる者同士の、変わらぬ、絆が、王都と、辺境を、結んでいた。彼女が、来るたびに、わたしたちは、夜遅くまで、数字と、記録の、話に、花を、咲かせた。
「あなたと、話していると」ロザリンドは、いつも、言った。「記録が、ただの、紙では、なく、生きた、ものに、思えます。……あなたに、辺境で、出会えて、良かった」
そして、ヴァレン。
彼は、変わらず、無骨な、辺境伯だった。剣で、辺境を、守り、わたしの、引いた、道を、支え続けてくれた。口下手なのも、相変わらず。でも、その、飾らない、優しさは、少しも、変わらなかった。むしろ、年を、重ねるごとに、深く、なっていった。
「アデル」ヴァレンが、市場を、歩く、わたしの、隣に、来た。「今日も、精が、出るな」
「ええ」わたしは、微笑んだ。「良い、市場です。人の、顔に、余裕が、ある。……これ以上の、豊かさの、証は、ありません」
わたしたちは、並んで、市場を、歩いた。行き交う、人々が、笑顔で、頭を、下げていく。奥方様。辺境伯様。その、声には、恐れでは、なく、親しみと、感謝が、こもっていた。かつて、流れ者の、元・伯爵令嬢だった、わたしを、この土地の、人々は、いま、心から、慕ってくれていた。
城に、戻り、わたしは、辺境の、最新の、帳簿を、開いた。
産業も、交易も、民生も、すべてが、健やかに、回っていた。黒字は、安定し、蓄えは、厚く、備えは、万全。どの、数字を、見ても、辺境の、健やかさが、伝わってきた。争いは、少なく、飢える者は、なく、人々は、明日を、安心して、数えている。
「良い、数字です」わたしは、静かに、呟いた。
それは、わたしにとって、最上級の、賛辞だった。派手な、言葉では、ない。ただ、良い、数字。でも、その、一言に、この土地の、すべての、幸せが、詰まっていた。飢えない、暮らし。栄える、町。慕ってくれる、人々。そして、隣に、いる、愛する人。すべてが、この、帳簿の、健やかな、数字に、静かに、映っていた。
数字は、正直だ。この、良い数字は、嘘では、ない。わたしたちが、地道に、積み上げてきた、本物の、幸せだ。
「幸せ、そうだな」ヴァレンが、帳簿を、覗き込んで、言った。
「はい」わたしは、迷わず、頷いた。「とても」
窓の外には、豊かな、辺境が、広がっていた。積み上げてきたものの、すべてが、この、穏やかな、景色に、結実していた。居場所も、仲間も、愛も。かつて、何一つ、持たなかった、わたしが、いま、そのすべてを、手にしていた。
長い、物語の、果てに、たどり着いた、この、穏やかな、幸福。それを、わたしは、明日も、明後日も、静かに、数え続けていく。この、愛する、辺境で。愛する、人と、共に。




