第70話 数字は、正直だ
朝の、光が、辺境の、城を、包んでいた。
わたしは、いつものように、早くに、目を、覚まし、書斎に、入った。窓を、開けると、澄んだ、朝の、空気と、遠くの、市場の、賑わいが、流れ込んでくる。今日も、辺境は、健やかに、動き始めている。その、気配だけで、心が、満たされた。
机の上には、辺境の、帳簿が、置かれていた。真新しい、頁を、開き、羽根ペンを、手に、取る。今日の、数字を、記す、朝の、習慣だ。
ふと、手を、止めて、わたしは、窓の外を、眺めた。
思えば、遠くまで、来た、ものだ。
かつて、わたしは、テオドール伯爵家の、いらない子だった。母を、早くに、亡くし、後妻と、その連れ子に、居場所を、奪われ、地味な、帳簿方として、家の、綻びを、一人で、縫い続けた。誰にも、感謝されず、それどころか、無能と、嘲笑われ、婚約を、破棄され、厄介払いのように、辺境へ、嫁がされた。
愛されないのが、普通だと、思っていた。居場所など、どこにも、ないと、諦めていた。だから、何も、持たないように、生きてきた。持たなければ、失わない。それが、わたしの、身を、守る、たった一つの、術だった。
けれど、この、辺境で、わたしは、変わった。
数字を、読む力で、死にかけた、辺境を、立て直した。飢えを、防ぎ、封鎖を、耐え、大陸一の、大商会を、正しい記録の、力で、退けた。剣も、魔法も、使わずに。ただ、正直に、数え、正直に、記録して。
そして、それ以上に、大きなものを、手に、入れた。
慕ってくれる、領民。育っていく、若い、担い手たち。忠実な、老臣。素直な、看板娘。正しい記録を、信じる、盟友。そして――何より、隣で、わたしを、支え、共に、生きてくれる、愛する人。
かつて、何一つ、持たなかった、わたしが。いま、居場所と、愛と、尊厳の、すべてを、手にしていた。
「早いな」
声に、振り向くと、ヴァレンが、書斎の、戸口に、立っていた。寝起きの、無骨な、顔で、こちらを、見ている。
「はい」わたしは、微笑んだ。「今日の、数字を、つけようと、思って」
「相変わらず、だな」ヴァレンが、可笑しそうに、言った。「幸せそうな、顔で、帳簿を、開く、やつは、あんたくらいだ」
「幸せ、ですから」わたしは、迷わず、言った。
その言葉に、ヴァレンが、少しだけ、照れたように、目を、そらした。その、耳が、赤くなるのも、数年前と、少しも、変わらなかった。
「なあ」ヴァレンが、窓辺に、来て、隣に、立った。「あんたは、辺境に、来て、後悔は、ないか。あんな、家に、追い出されて。……もっと、穏やかな、人生も、あっただろう」
わたしは、少し、考えた。それから、首を、振った。
「後悔は、ありません。むしろ、感謝しています」わたしは、言った。「あの家に、追い出されなければ、わたしは、この、辺境に、来なかった。あなたにも、マレナにも、ギースにも、会えなかった。……いらない子だった、あの日々が、あったから、いまの、この、幸せが、あります。人生の、帳簿は、途中の、赤字だけでは、決まらない。最後に、どんな、黒字を、積むか。それで、決まるんです」
「うまいことを、言う」ヴァレンが、苦笑した。
「会計令嬢、ですから」わたしは、悪戯っぽく、笑った。二人で、顔を、見合わせて、笑い合った。こんな、なんでもない、朝の、笑いが、いちばんの、宝物だと、いまなら、わかる。
わたしは、羽根ペンを、インクに、浸し、真新しい、頁に、向かった。今日の、辺境の、数字を、記していく。関所の、税。市場の、賑わい。鉱山の、産出。人々の、暮らし。どれも、健やかで、正直な、数字だった。
書きながら、わたしは、母の、言葉を、思い出していた。数字は、正直だから、いつか、あなたを、助けてくれる。幼い、わたしに、そう、教えてくれた、母。その、言葉は、本当だった。数字は、わたしを、助けてくれた。飢えた、辺境を、救い、悪意を、退け、奪われた、名誉を、取り戻し、そして、わたし自身に、居場所を、与えてくれた。
嘘を、つく者は、その、嘘の、重みで、いつか、沈む。正直に、数える者は、時間が、かかっても、必ず、報われる。それが、この、長い、物語を通じて、わたしが、証明してきたことだった。数字は、身分にも、権力にも、忖度しない。ただ、正直な者の、隣に、いてくれる。
そして、母の、もう一つの、言葉も、いまなら、わかる。人を、恨むために、数えるな、助けるために、数えなさい。わたしは、恨みでは、なく、守りたいもののために、数え続けてきた。だから、数字は、こんなにも、まっすぐに、わたしを、幸せへと、導いてくれた。もし、恨みのために、数えていたら、きっと、どこかで、道を、誤っていた。数字は、正直だが、それを、握る、心が、濁れば、その正直さも、濁ってしまう。清らかな、心で、握った数字だけが、清らかな、答えを、返してくれる。
頁の、最初の、一行に、わたしは、今日の、日付を、記した。それから、少し、微笑んで、心の中で、そっと、続きを、書いた。
――今日も、数字は、正直だ。そして、わたしは、幸せだ。
窓の外では、辺境が、朝の、光の中で、目覚めていく。市場の、賑わい。人々の、笑い声。行き交う、荷車。かつて、闇に、沈んでいた、土地に、いま、確かな、灯りが、満ちている。
その、灯りを、これからも、わたしは、数え続ける。一つ、また一つと。この、愛する、辺境で。愛する、人と、共に。数字が、嘘を、つかない限り、この、幸せもまた、嘘には、ならない。
わたしは、羽根ペンを、走らせた。新しい、一日の、最初の、数字が、真新しい、頁に、静かに、刻まれていく。
叫ばずに、ただ、正直に、数え続けた、令嬢の、物語は。こうして、静かな、朝の、光の中で、確かな、幸福の、数字を、刻みながら、続いていく。
これからも、ずっと。




