第67話 二つの帳簿を、一つに
その、夜。わたしは、ヴァレンを、城の、庭に、誘った。
わたしと、ヴァレンは、政略で、結ばれた、夫婦だった。困った辺境に、金勘定の、できる嫁が、来る。それだけの、取り決め。祝言らしい、祝言も、なかった。心の、通わない、始まりだった。
だが、いまは、違う。共に、飢えを、越え、封鎖を、耐え、敵を、退けた。互いの、弱さを、見せ合い、互いに、支え合った。政略で、始まった、二人の間に、いつしか、確かな、想いが、育っていた。
それを、きちんと、言葉に、したかった。危機の、勢いでも、成り行きでも、ない。落ち着いた、いま、自分の、意思で。
「ヴァレン様」わたしは、月明かりの下で、口を、開いた。「一つ、ご提案が、あります」
「提案?」ヴァレンが、少し、身構えた。「あんたの、提案は、いつも、大きいからな。今度は、何を、立て直す気だ」
わたしは、少し、笑った。それから、まっすぐに、彼を、見た。
「あなたの、家の帳簿と、わたしの、帳簿。……一つに、しませんか」
ヴァレンが、きょとんと、した。
「わたしたちは、政略で、結ばれました」わたしは、続けた。「紙の上だけの、夫婦でした。でも、この、一年半で、わたしは、あなたを、心から、大切に、思うように、なりました。あなたと、この土地で、生きていきたい。……だから、もう一度、今度は、心で、結ばれたいんです。二つの、別々の、帳簿を、本当に、一つに、して」
言いながら、頬が、熱くなった。会計令嬢らしい、無骨な、言い方だと、自分でも、思った。もっと、気の利いた、言葉が、あったかもしれない。でも、これが、わたしの、精一杯の、まっすぐな、想いだった。
「帳簿を、一つに、する、というのはな」わたしは、恥ずかしさを、隠すように、少し、早口で、付け加えた。「別々に、つけていた、二つの、家計を、一つに、まとめる、ということです。収入も、支出も、蓄えも、借金も。良いことも、悪いことも、全部、一緒に、背負う。片方が、苦しいときは、もう片方が、支える。……喜びは、二倍に、なって、痛みは、半分に、なる。それが、帳簿を、一つに、する、ということです」
「ずいぶん、実務的な、告白だな」ヴァレンが、可笑しそうに、言った。
「わたしには、これが、精一杯の、愛の、言葉なんです」わたしは、ますます、赤く、なった。「甘い、言葉は、知りません。でも、これは、本気です。あなたの、赤字も、黒字も、全部、一緒に、背負いたい。……それが、わたしの、いちばん、正直な、気持ちです」
ヴァレンは、しばらく、その言葉を、噛みしめていた。それから、ふっと、口元を、緩めた。
「帳簿を、一つに、か」ヴァレンは、言った。「あんたらしい、言い方だ。……だが、悪くない。いや、いちばん、あんたらしくて、いい」
彼は、わたしの、前に、進み出た。そして、いつもの、ぶっきらぼうさの、奥に、確かな、想いを、こめて、言った。
「アデル。俺の、帳簿は、赤字だらけの、汚い、帳簿だった。兄のことも、領のことも、何もかも、うまく、いかなくて。……そこに、あんたが、来た。あんたが、俺の、汚い帳簿を、一つずつ、直してくれた。領も、俺の、心も。だから――」
彼は、そっと、わたしの、手を、取った。
「一つに、しよう。あんたの、帳簿と、俺の、帳簿を。これから、先の、数字は、全部、二人で、つける。黒字も、赤字も。……一生、あんたと、数えていきたい」
その、飾らない、言葉が、胸の、いちばん、深いところに、届いた。目の奥が、熱くなる。けれど、今度の、涙は、恐れでも、悲しみでも、なかった。ただ、満たされた、喜びの、涙だった。
「はい」わたしは、頷いた。「一生、あなたと、数えます。二人の、帳簿を、一つにして」
派手な、プロポーズでは、なかった。跪くことも、指輪を、差し出すことも、なかった。ただ、二人らしい、静かで、確かな、誓いだった。会計令嬢と、無骨な、辺境伯。二人の、帳簿が、一つに、なった、瞬間だった。
月が、二人を、照らしていた。かつて、政略で、結ばれた、心の、通わない、夫婦。その二人が、いま、心から、生涯を、共にすると、誓い合った。長い、遠回りの、末に、たどり着いた、本当の、結びつきだった。
「不思議です」わたしは、涙を、拭いながら、言った。「政略で、始まった、この結婚が。まさか、こんなに、温かいものに、なるなんて。始まりの、数字だけでは、行き先は、わからない、ものですね」
「ああ」ヴァレンが、頷いた。「始まりが、味気なくても。……途中で、いい数字を、積み上げれば、いい。そうだろう?」
「その通りです」わたしは、微笑んだ。「これから、二人で、いい数字を、たくさん、積み上げましょう。この、辺境で」
ふと、庭の、生垣の、陰で、何か、動く、気配が、した。目を、やると、マレナと、ギースが、慌てて、身を、隠すのが、見えた。また、この、二人だ。大事な、場面には、いつも、そっと、見守っている。
「隠れなくて、いいのよ」わたしは、声を、かけた。「二人にも、いちばんに、報告したかったの。……わたしたち、今度こそ、本当の、夫婦に、なります」
マレナが、わっと、泣き出し、ギースが、洟を、すすった。「おめでとう、ございます、奥方様! 旦那様!」。その、心からの、祝福が、月夜に、響いた。血の、繋がりは、なくても、この人たちは、もう、わたしの、大切な、家族だった。あの家では、決して、得られなかった、温かい、家族が、ここに、いた。
二人の、想いは、成就した。政略から、始まった、遠回りの、恋は、いま、確かな、約束として、結ばれた。そして、この、二人の、結びつきは、辺境の、新しい、時代の、始まりでも、あった。
祝福の、季節が、近づいていた。かつて、死にかけていた、辺境に。いまや、豊かさと、そして、二人の、幸せが、満ちようとしていた。




