第62話 兄の、名を返す
ヴァレンの兄の、死の、真相が、公式の、記録として、認められる日が、来た。
会計院は、ハルバの、不正の、清算の、一環として、過去に、罠にはめられた、被害者たちの、名誉回復も、進めていた。その中に、ヴェント辺境伯家の、先代――ヴァレンの兄の、名が、あった。
わたしと、ロザリンドは、集めた、すべての、証拠を、会計院に、提出した。偽の、疫病で、慌てさせた、覚え書き。噂で、他の、貸し手を、遠ざけた、痕跡。混乱に、乗じて、結ばせた、罠の、契約。そして、兄が、必死に、返済を、続け、罠から、逃れようと、もがいた、記録。
それらを、突き合わせ、会計院は、正式に、認めた。
「ヴェント辺境伯家の、先代は」ロザリンドが、正式な、書状を、読み上げた。その、抑揚のない声が、この日ばかりは、厳かに、響いた。「放漫な、経営によって、家を、傾けたのでは、ない。ハルバ商会の、周到な、罠によって、返済不能な、契約を、負わされ、領民を、守ろうと、奔走した末に、力尽きた。……ここに、その、汚名を、公式に、雪ぐ」
その言葉が、読み上げられた瞬間、ヴァレンは、目を、閉じた。
長いあいだ、兄に、着せられていた、放蕩者の、汚名。弟である、ヴァレン自身が、兄を、恥じ、墓の前でさえ、詫びなかった、その、汚名。それが、いま、公の、記録によって、晴らされた。
「お兄様は」わたしは、静かに、言った。「無能だったのでは、ありません。記録が、それを、証明します。むしろ、逆です。領民を、飢えさせまいと、あえて、危ない橋を、渡り、罠と、知らずに、はめられた。……最後まで、辺境を、守ろうとした、当主でした。それが、いま、正しく、記録に、残ります」
ヴァレンは、しばらく、何も、言えなかった。やがて、絞り出すように、口を、開いた。
「兄上……」
その一言に、万感の、思いが、こもっていた。恨み、悔い、そして、遅すぎる、理解と、詫び。長年、兄を、誤解していた、弟の、痛み。それが、この、たった一言に、すべて、溶けていた。
「兄は」ヴァレンは、涙を、こらえながら、言った。「俺に、何も、言わなかった。一人で、抱えて、放蕩者と、後ろ指を、さされながら、死んでいった。……俺は、その兄を、恥じていた。ずっと。だが、兄は、俺なんかより、ずっと、立派に、辺境を、守ろうとしていた。それを、知らずに」
「いま、知りました」わたしは、そっと、言った。「遅くは、ありません。お兄様は、ずっと、待っていたんです。誰かが、あの、古い帳簿を、正しく、読んで、本当のことを、知ってくれる日を。……数字は、何年でも、待ちます。読まれる日を、静かに、待ち続ける。そして、いま、その日が、来ました」
ギースが、傍らで、声を、上げて、泣いていた。先代に、長く、仕えた、この老臣は、誰よりも、兄の、無念を、知っていた。放蕩者と、呼ばれ、消えていった、優しい、当主の、名が、いま、戻ってきた。その、喜びに、老いた体を、震わせていた。
「先代は」ギースは、涙ながらに、言った。「本当に、お優しい、方でした。飢える領民を、見ていられず……ご自分の、食事さえ、削って。それが、放蕩者などと。……ようやく、ようやく、真実が」
わたしは、その、涙する、老臣と、ヴァレンを、見ながら、思った。名誉とは、こういうもの、なのだと。生きているうちに、間に合わなかった。兄は、汚名を、着せられたまま、逝った。それでも、真実が、記録に、残る限り、名誉は、時を、越えて、戻ってくる。数字は、死者の、名さえ、取り戻す。それが、正しい記録の、いちばん、静かで、いちばん、深い、力だった。
「わたしは」わたしは、そっと、言った。「この、お仕事を、していて、いちばん、報われるのが、この、瞬間です。奪われた、名誉が、戻る。消されかけた、真実が、蘇る。……お金を、取り戻すより、ずっと、嬉しい。数字は、お金だけの、ものでは、ありません。人の、生きた、証を、守るものでも、あるんです」
その夜。ヴァレンは、兄の、墓を、訪れた。わたしも、共に、立った。
ヴァレンは、墓石の前に、膝を、つき、長いあいだ、頭を、垂れていた。何を、語りかけたのか、わたしには、聞こえなかった。ただ、その、背中が、これまで、背負ってきた、重いものを、静かに、下ろしているのが、わかった。
「兄上」ヴァレンは、最後に、そう、言った。「すまなかった。……そして、ありがとう。あんたが、残してくれた、記録が、辺境を、救った。あんたは、最後まで、辺境を、守ってくれた」
わたしは、そっと、その隣に、立ち、墓石に、語りかけた。あなたが、諦めずに、正直な記録を、残してくれたから。真実は、勝てました。あなたの、守ろうとした、辺境は、いま、生き返りました。どうか、安らかに。
過去の、汚名は、晴れた。長年、ヴェント家に、のしかかっていた、重い、影が、ようやく、消えた。ヴァレンの、目には、悲しみと、同時に、深い、安らぎが、あった。
「終わったな」ヴァレンが、静かに、言った。「兄のことも。ハルバのことも。……長かった」
「はい」わたしは、頷いた。「あとは、前を、向くだけです。お兄様が、守ろうとした、この辺境を。今度は、わたしたちが、育てていく番です」
墓所を、包む、夜風は、冷たかったが、不思議と、寂しくは、なかった。過去の、痛みに、区切りが、つき、その先に、育てるべき、未来が、はっきりと、見えていたからだ。悼みは、終わりでは、ない。ここから、生きる者が、何を、育てるか。それが、逝った者への、いちばんの、手向けだと、わたしは、思った。
過去を、清算した、二人は、いよいよ、辺境の、再建の、総仕上げへと、向かおうとしていた。




