第56話 続かなかっただけ
ハルバの、総攻撃は、わたしの、読んだ通りの、経過を、たどった。
はじめの、数日は、確かに、凄まじかった。四方から、圧力が、押し寄せ、辺境は、今にも、押し潰されそうに、見えた。だが、辺境は、ただ、耐えた。挑発に、乗らず、守りを、崩さず、決して、こちらから、仕掛けなかった。ぎりぎりの、配分で、命を、繋ぎ、細い、交易路で、息を、継ぎながら。
そして、七日目、あたりから。変化は、向こう側に、現れ始めた。
「奥方様」物見からの、報せを、持って、ヴァレンが、来た。「国境の、兵の、動きが、鈍い。天幕の、数が、減っている。……引き始めているぞ」
「兵糧が、尽きたんです」わたしは、静かに、頷いた。「グラス伯爵の、財布も、ハルバの、財布も、もう、限界です。派手に、攻めた分、金を、燃やし尽くした。兵は、腹が、減れば、戦えません。給金が、途切れれば、去ります。……剣は、強くても、その剣を、支える、金が、尽きた」
しかも、引き際に、向こうの、内輪もめの、気配まで、伝わってきた。グラス伯爵の、兵と、ハルバの、雇った、傭兵の、間で、給金の、押し付け合いが、始まったらしい。誰が、この、兵の、費用を、持つのか。攻めているうちは、勝てば、取り返せると、我慢していた。だが、勝てないと、わかった瞬間、その、金の話が、一気に、噴き出した。
「金で、繋がった、だけの、仲は」わたしは、静かに、言った。「損に、なった瞬間、ほどけます。ずっと、前に、そう、読みました。……いま、その通りに、なっています。ハルバと、伯爵は、勝っているうちは、仲間でした。でも、負けが、見えた瞬間、互いに、損を、押し付け合う、他人に、戻る。血でも、義理でもない。損得だけの、絆は、脆いんです」
日ごとに、包囲は、緩んでいった。国境の、兵は、一団、また一団と、引き揚げていく。封鎖の、旗も、いつしか、まばらになった。辺境を、締め上げていた、四方の、圧力が、内側から、溶けるように、崩れていった。
そして、ある朝。北からの、荷が、間道を、通って、辺境に、届いた。約束の、六日を、越えたのだ。蔵に、麦が、積み上がり、領民の、頬に、血の気が、戻った。飢えの、影は、去った。
「越えました」わたしは、深く、息を、吐いた。全身から、長い、緊張が、抜けていく。「封鎖も、総攻撃も。……辺境は、耐え切りました」
城下に、歓声が、上がった。飢えと、封鎖の、恐怖を、共に、越えた、人々の、安堵と、喜びの、声だった。誰かが、泣いていた。誰かが、笑っていた。一年半前、闇に、沈んでいた、この土地に、いま、生き延びた者の、確かな、活気が、満ちていた。
マレナが、麦の、袋に、頬を、すり寄せて、泣きじゃくっていた。「よかった……よかったよう、奥方様」。その、涙を、見て、わたしも、胸が、熱くなった。この、素直な、喜びこそ、守り抜いたものの、証だった。数字の、上の、勝利では、ない。一人ひとりの、生き延びた、命の、重さだった。
「勝ったな」ヴァレンが、感慨深そうに、言った。「あの、大商会に。あれだけの、圧力を、はねのけて」
「勝ちました」わたしは、静かに、頷いた。「でも――わたしたちは、何も、奪って、いません。ハルバの、兵を、討ち取ったわけでも、財産を、奪ったわけでも、ない。ただ、耐えただけです。相手が、続かなかった。それだけなんです」
それは、謙遜では、なかった。事実だった。わたしは、剣を、一本も、抜いていない。呪いも、かけていない。ただ、辺境を、持たせ、相手が、自分の、力を、使い果たすのを、待っただけ。ハルバは、自分の、浪費で、崩れた。派手に、攻めれば、攻めるほど、自分の、財布を、軽くして。
「これが」わたしは、言った。「わたしの、戦い方の、すべてです。奪わない。討たない。ただ、正しく、耐える。相手が、無理を、重ねて、自分から、倒れるのを、待つ。……派手さは、ありません。でも、いちばん、血の流れない、勝ち方です」
ヴァレンは、その言葉を、噛みしめるように、頷いた。武人でありながら、彼は、その、剣を、抜かない勝ち方の、価値を、誰よりも、深く、理解していた。守ると、いうのは、敵を、討つことでは、なく、味方を、生き延びさせることだ、と。この、一年半で、彼自身が、変わっていた。
だが、勝利に、浮かれる、暇は、なかった。外からの、攻勢が、萎んだ、その、まさに、同じ頃。今度は、ハルバの、内側で、別の、崩壊が、始まろうとしていた。
「奥方様」ロザリンドが、王都からの、便りを、手に、来た。その、抑揚のない声に、かすかな、興奮が、混じっていた。「動きが、ありました。……ハルバの、内側で」
「内側で」
「総攻撃の、失敗で、ハルバは、大きく、信用を、失いました」ロザリンドは、言った。「これまで、ハルバの、力を、恐れて、従っていた者たちが、離れ始めている。そして――これまで、ハルバに、二重に、担保を、取られていた、債権者や、被害貴族たちが。わたしたちの、示した、証拠をもとに、次々と、真相に、気づき始めています」
わたしの、目が、光った。外の、戦いは、終わった。だが、本当の、決着は、これからだった。ハルバが、長年、内側に、抱え込んできた、嘘の、連鎖。それが、いよいよ、自らの、重みで、崩れ始める。
「一つの、嘘は」わたしは、静かに、言った。「次の、嘘で、支えるしか、ありません。ハルバは、あまりに、多くの、嘘を、重ねすぎた。……もう、支えきれません。内側から、崩れます」




