第52話 記録は、否認を知らない
王都から、届く便りは、日ごとに、崩壊の、色を、濃くしていった。
会計院の、査察は、テオドール伯爵家と、ダルク子爵家の、粉飾に、容赦なく、切り込んでいた。ロザリンドの、同僚たちが、両家の、帳簿を、一枚ずつ、めくり、辻褄の、合わない箇所を、次々と、暴いていく。
「父は」わたしは、便りを、読みながら、静かに、言った。「否認したそうです。粉飾など、していない。すべて、まっとうな、経営だ、と」
追い詰められた者が、まず、すること。否認。認めなければ、なかったことに、できると、信じる、最後の、あがき。かつて、あの家では、それが、通用した。地味な、数字の話を、誰も、確かめようとは、しなかったから。
だが、今度は、違った。
査察官の前に、一冊の、帳簿が、差し出された。それは、会計院に、届いた、あの、告発の、控え。わたしが、去り際に、書庫に、残してきた、正直な、数字。粉飾ではない、ありのままの、テオドール伯爵家の、真実の、帳簿だった。
「これは、なんですか」査察官は、静かに、父に、問うたという。「あなたの、家の、書庫に、あったものです。あなたが、会計院に、提出した、帳簿とは、まったく、違う数字が、記されている。……どちらが、本当ですか」
父は、答えられなかった。
自分の、家の、書庫に、あった、記録。それが、家人の、誰かによって、書かれた、正確な、控えである以上、外部の、でっち上げだ、とは、言えない。かといって、それを、本物だと、認めれば、会計院に、出したほうが、嘘だったと、認めることになる。どちらに、転んでも、逃げ道は、なかった。
「わたしは」遠く、辺境で、その、報せを、聞きながら、わたしは、静かに、呟いた。「事実を、残しただけです。否認は――記録の前では、効きません」
それは、感慨でも、勝ち誇りでも、なかった。ただ、事実だった。
嘘の、否認は、別の、嘘で、支えるしか、ない。問い詰められれば、また、嘘を、重ねる。だが、正しい記録は、否認を、知らない。ただ、そこに、あって、静かに、事実を、語り続ける。声を、荒らげも、しない。責め立ても、しない。ただ、動かせない、数字として、そこに、ある。その、静かな、確かさの前で、あらゆる、否認は、崩れていく。
「皮肉なもの、ですね」わたしは、ヴァレンに、言った。「あの家は、わたしを、いらない子として、追い出しました。地味な、帳簿方など、代わりは、いくらでもいる、と。……でも、その、追い出した娘が、去り際に、そっと、残した、たった一冊の、正直な帳簿が、いま、あの家の、あらゆる、嘘を、封じている」
「あんたは」ヴァレンが、静かに、言った。「復讐の、つもりで、残したのか。あの記録を」
「いいえ」わたしは、首を、振った。「復讐なら、もっと、派手なことを、したでしょう。あれは、ただ、消したくなかっただけです。わたしが、あの家で、確かに、正しい数字を、知っていた。その、証を。……いつか、誰かが、本当のことを、知りたくなったときのために。それが、こんな形で、効くとは、思っても、いませんでした」
不思議な、気持ちだった。わたしは、あの家に、剣を、向けていない。呪いも、かけていない。ただ、正直な、数字を、一冊、残しただけ。なのに、その、一冊が、いま、大きな、家を、内側から、崩している。わたしは、何も、していない。ただ、事実が、事実の、仕事を、しているだけだ。
「これが」わたしは、静かに、言った。「わたしの、戦い方です。剣も、呪いも、使いません。ただ、正しい数字を、正しい場所に、置くだけ。あとは、数字が、勝手に、答えを、出します。……嘘を、ついた者は、その嘘の、重みで、自分から、沈んでいく。わたしが、沈めるのでは、ありません。嘘そのものが、いつか、支えきれなくなって、崩れるんです」
ヴァレンは、しばらく、わたしを、見つめていた。それから、ぽつりと、言った。
「あんたは、恨みを、晴らそうとは、しないんだな。あれだけの、仕打ちを、受けて」
「恨みは」わたしは、少し、考えた。「ないと、言えば、嘘に、なります。いらない子として、扱われた、痛みは、ずっと、胸の、奥に、あります。でも――その痛みに、いつまでも、火を、くべていると、自分が、焼かれます。恨みは、抱えている、こちらの、心を、いちばん、蝕むんです。だから、わたしは、恨みを、握りしめる代わりに、正しい数字を、握りました。数字は、恨みより、ずっと、静かで、ずっと、強い」
言いながら、わたしは、辺境で、得た、温かいものを、思った。ヴァレンの、飾らない、言葉。マレナの、素直な、笑顔。ギースの、忠実さ。領民の、信頼。あの家で、失ったものより、はるかに、多くのものを、わたしは、ここで、手に、入れた。だからこそ、もう、あの家の、崩壊に、心を、割く必要が、なかった。振り返る、理由が、なかった。前に、守りたいものが、あるのだから。
テオドール伯爵家の、破綻は、確定的に、なった。粉飾は、露見し、否認は、封じられ、負債の、全貌が、白日の、下に、さらされた。かつて、社交界で、華やかに、振る舞っていた、あの家は、いま、その、華やかさの、裏の、空洞を、すべて、暴かれていた。
だが、その、崩れゆく家の、中心で。わたしから、婚約者も、居場所も、奪った、あの人が――セシリアが、ようやく、遅すぎる、あることに、気づき始めていた。
自分が、追い出した、姉が。あの、地味な、帳簿方が。一人で、いったい、どれほどの、重荷を、背負っていたのかを。




