第48話 ここに、いたい
ヴァレンの、傷は、思ったより、浅かった。城に、戻り、手当てを、受けると、数日で、床から、身を、起こせるように、なった。
わたしは、その間、ずっと、傍らに、いた。帳簿も、封鎖の、采配も、あった。だが、少しの、時間を、見つけては、この人の、そばに、戻った。前なら、考えられないことだった。役目を、放り出すなど。でも、いまは、それが、自然だった。
「もう、大丈夫だ」ヴァレンが、包帯の、巻かれた肩を、動かして、言った。「そんなに、心配、するな。あんたには、やるべきことが、山ほど、ある」
「やるべきことは、あります」わたしは、頷いた。「でも、いちばん、やるべきことが、いま、ここに、いることだと、思っただけです」
窓から、夕日が、差し込んでいた。二人きりの、静かな、時間だった。わたしは、しばらく、迷った。ずっと、言葉に、できずにいたことを、今日こそ、言おうと、決めていた。でも、いざとなると、心臓が、痛いほど、鳴った。数字を、読むほうが、よほど、楽だった。
「ヴァレン様」わたしは、意を決して、口を、開いた。「聞いて、いただきたいことが、あります」
ヴァレンが、こちらを、見た。
「わたしは」わたしは、膝の上で、手を、握りしめた。「ずっと、一人で、生きてきました。あの家で、いらない子として。頼っても、無駄だと、諦めて。誰かを、大切に、思うことも、避けてきました。大切なものは、失うから。持たなければ、失わずに、済むと。……ずっと、そう、信じて、生きてきたんです」
「ああ」ヴァレンは、静かに、聞いていた。
「でも」わたしは、顔を、上げた。「あなたが、傷ついたと、聞いたとき。わたし、何も、数えられなく、なりました。頭が、真っ白に、なって。ただ、あなたを、失いたくない、それだけで、体が、動いた。……そのとき、わかったんです。わたしは、もう、とっくに、あなたを、大切に、思っている。持たないふりを、していただけで、本当は、もう、この手に、抱えていた」
言葉が、震えた。けれど、止めなかった。
「わたし、あなたに、頼りたい」わたしは、言った。生まれて初めて、その言葉を、自分の、意思で。「一人で、抱えるのは、もう、やめたい。荷を、分けたい。あなたと。……そして、ずっと、この場所に、いたいんです。数える相手が、ほしいから、ではなく。あなたの、いる、この辺境で、生きていきたいから」
言い終えて、わたしは、うつむいた。顔が、熱かった。こんな、まっすぐな、望みを、口にしたのは、生まれて、初めてだった。断られたら、どうしよう、という、臆病な心が、まだ、隅に、あった。
長い、沈黙が、あった。
やがて、ヴァレンが、口を、開いた。その声は、いつも、以上に、ぶっきらぼうで、けれど、震えていた。
「俺は……口下手だ。あんたみたいに、うまく、言えん」ヴァレンは、言葉を、探しながら、言った。「気の利いたことも、言えん。飾ることも、知らん。だが……」
彼は、包帯の腕を、そっと、動かし、わたしの、手に、重ねた。武人の、大きな、ごつごつした手が、わたしの、冷たい手を、包んだ。
「ここに、いてくれ」ヴァレンは、言った。「ずっと。……あんたが、来てから、この辺境は、生き返った。俺も、だ。あんたのいない、これからなんて、俺も、数えられん。だから――いてくれ。俺の、隣に」
その、飾らない、たった一言が、これまでの、どんな、美辞麗句より、深く、胸に、届いた。目の奥が、また、熱くなる。けれど、今度の、涙は、恐れの、涙では、なかった。
「はい」わたしは、頷いた。「います。ずっと、ここに」
重ねた手の、温もりが、じんわりと、伝わってきた。長いあいだ、数字だけを、盾にして、一人で、渡ってきた、綱の上。その隣に、いま、確かに、この人が、いた。もう、一人では、なかった。
扉の、隙間から、マレナと、ギースが、そっと、覗いているのに、わたしは、気づいていた。マレナは、両手で、口を、押さえ、目を、潤ませている。ギースは、しきりに、洟を、すすっていた。二人とも、この、不器用な、二人のことを、ずっと、案じて、見守ってくれていたのだ。
気づかないふりを、してあげよう、と、わたしは、思った。この、温かい、見守りも、また、辺境で、得た、かけがえのないものだった。あの家では、誰も、わたしの、幸せなど、願ってくれなかった。ここには、こんなにも、わたしのことを、我がことのように、喜んでくれる人が、いる。
「不思議です」わたしは、少し、笑った。涙を、拭いながら。「何も、解決していないのに。封鎖も、ハルバも、まだ、残っているのに。……なんだか、もう、何も、怖くない気がします」
「荷を、分けたからだろう」ヴァレンが、言った。「一人で、持てば、重い。二人なら、軽い。当たり前のことだ」
当たり前の、こと。この人は、いつも、そう言う。でも、わたしには、その、当たり前が、いちばん、遠かった。その、遠かったものに、いま、ようやく、手が、届いた。
夕日が、二人を、包んでいた。静かで、温かい、時間だった。臆病さの、殻を、脱ぎ捨てた、その先に、こんな、穏やかな、光が、待っているとは、知らなかった。
けれど、この、穏やかさに、いつまでも、浸っては、いられない。わたしは、そっと、顔を、上げた。守りたいものが、はっきりと、定まった、いま。だからこそ、それを、脅かす、すべてに、決着を、つけなければ、ならない。
「ヴァレン様」わたしは、静かに、言った。目に、新しい、光が、宿る。「わたしたちの、この場所を、守るために。……そろそろ、反撃に、出ましょう。守るだけの、戦いは、終わりです」




