第37話 合わない日付
全70話完結予定です。毎日5話、7:10/12:10/17:10/20:10/22:10に更新します。
面白い、続きが気になると思っていただけましたら、評価・ブックマークで応援していただけると励みになります。
滑り落ちた、古い覚え書きを、わたしは、拾い上げた。
ハルバが、ヴァレンの兄と、あの、返せない借金の契約を、結んだ、その、前後の、やり取りを、記した、断片だった。ハルバ側の、内部の、覚え書きらしい。おそらく、契約の、束に、間違って、紛れ込んだものだ。
わたしと、ロザリンドは、その覚え書きと、辺境に残る、当時の記録とを、突き合わせた。日付を、一つずつ、並べていく。すると、奇妙な、ずれが、見えてきた。
「ここです」わたしは、二つの記録を、指した。「ハルバは、先代――お兄様に、こう、伝えていました。『辺境で、疫病が、広がりつつある。すぐに、大量の、薬と、食料を、備えなければ、領民が、大勢、死ぬ』と。だから、お兄様は、慌てて、大金を、工面しようとした。それが、あの、無理な借金の、きっかけです」
「疫病」ロザリンドが、記録を、追った。「ですが、この、辺境の記録には……」
「そうなんです」わたしは、頷いた。「辺境の、当時の記録には、疫病の、痕跡が、まったく、ありません。死者も、増えていない。医者を、呼んだ記録も、薬を、大量に、使った記録も、ない。……疫病など、なかったんです。あったのは、ハルバが、お兄様に、そう、信じ込ませた、嘘だけ」
ヴァレンが、こわばった顔で、記録を、覗き込んだ。「兄は……ありもしない、疫病に、怯えて、金を、借りた、というのか」
「怯えさせられた、んです」わたしは、静かに、言った。「ハルバは、お兄様の、いちばん、優しいところを、突いた。領民を、死なせたくない。その、当主としての、責任感を。偽の、危機を、見せて、慌てさせ、冷静な、判断が、できないところへ、追い込んだ。そして、その、混乱の、さなかに、あの、返せない契約を、差し出した。慌てている人間は、小さな字を、読みません」
わたしは、覚え書きの、別の箇所を、指した。
「しかも、ここ。ハルバは、他の、貸し手が、お兄様に、近づかないよう、手を、回しています。『辺境は、疫病で、危ない』という、噂を、流して。まともな、貸し手が、辺境を、避けるように、仕向けた。そうして、お兄様に、残された、貸し手を、ハルバ、一つだけに、絞った。逃げ道を、ふさいでから、たった一つの、扉を、開けて、見せたんです」
「待ってくれ」ヴァレンが、苦しげに、言った。「だが……それだけで、罠だと、言い切れるのか。たまたま、兄が、疫病の、噂を、信じただけ、かもしれん。ハルバが、嘘を、ついたという、証拠には」
「なります」わたしは、覚え書きの、最後の行を、指した。「ここを、見てください。ハルバの、内部の、覚え書きに、こう、あります。『領主、備蓄の件、順調に、動揺している』。……動揺している、ではなく、動揺、させている、という、書きぶりです。相手が、勝手に、慌てたのを、見ているのでは、ない。自分たちが、慌てさせているのを、確かめている。この、たった一行が、ハルバが、意図して、お兄様を、追い込んだ、何よりの、証拠です」
ロザリンドが、その一行を、食い入るように、見た。「……たしかに。これは、偶然の、記録では、ない。相手を、操っている者の、書き方です」
証拠は、明白だった。偽の危機。噂による、逃げ道の封鎖。そして、混乱に、乗じた、罠の契約。ヴァレンの兄は、無能でも、放蕩でも、なかった。むしろ、領民を、思う、優しい当主だった。その、優しさに、つけ込まれ、周到に、はめられた、被害者だった。
「お兄様は」わたしは、はっきりと、言った。「罠に、かかったんです。数字が、そう、語っています。ありもしない、疫病の、日付。塞がれた、逃げ道の、日付。混乱に、乗じた、契約の、日付。全部、合わせると、一つの、絵になる。周到に、仕組まれた、罠の、絵に」
ヴァレンは、長いあいだ、その記録を、見つめていた。その肩が、震えていた。怒りと、悔いと、そして、遅れてきた、兄への、理解に。
「兄は」ヴァレンの声が、かすれた。「領民のために、金を、借りて。それで、罠にかかって。放蕩者と、後ろ指を、さされながら、死んだ。……最後まで、一人で、抱えて」
「あなたと、同じですね」わたしは、そっと、言った。「一人で、抱えるのが、癖だった。血は、争えません」
ヴァレンが、わたしを、見た。潤んだ目に、かすかな、笑みが、混じった。悲しみの中の、その、小さな、笑みが、痛々しくて、愛おしかった。
「ロザリンドさん」わたしは、査察官を、見た。「この、覚え書きを、正式な、証拠として、記録に、残せますか」
「残します」ロザリンドは、迷いなく、答えた。「これは、ハルバの、非道を、示す、重要な、証拠です。会計院の、名において、正式に、記録します。……いつか、この記録が、あの商会を、裁く、材料の、一つに、なるでしょう」
「頼みます」ヴァレンが、深く、頭を、下げた。「兄の、名を。放蕩者では、なかったと。……罠に、はめられた、優しい男だったと。それを、公の、記録に、残してくれ」
その姿を、見ながら、わたしは、心に、誓った。この、証拠を、必ず、生かす。ヴァレンの兄の、汚名を、晴らす。そして、同じ手口で、いくつもの、家を、土地を、食い物にしてきた、ハルバの、根を、断つ。それが、数字を、読める者の、できる、弔いだった。
だが、ハルバの、非道は、過去だけの、ものでは、なかった。その、まさに、同じ手口が、いま、王都で、別の、家々を、蝕んでいた。そして、その、家々に、ついに、公の、光が、当たり始めた、という報せが、翌日、辺境に、届いた。
会計院の、査察の手が、ついに、王都の、加害者家に――伯爵家と、子爵家に、伸びたのだ。




