第36話 抱えなくて、いい
全70話完結予定です。毎日5話、7:10/12:10/17:10/20:10/22:10に更新します。
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ヴァレンの、馬車が、襲われかけた。
幸い、供の者が、多く、賊は、何もできずに、逃げた。怪我人も、なかった。だが、その報せは、辺境に、重い、影を、落とした。ハルバは、理で、負けて、理の、通じない、手段に、傾き始めている。誰の目にも、それが、明らかだった。
その夜、わたしは、なかなか、眠れずに、城の、灯りの消えた、廊下を、歩いていた。窓辺で、外を、見ていると、同じように、眠れないらしい、ヴァレンが、やってきた。
「あんたも、か」ヴァレンが、隣に、立った。
「はい」わたしは、頷いた。「今日の、ことが、頭から、離れなくて。もし、供の方が、少なかったら。もし、あなたに、何かあったら。……そう、考えると」
「俺は、大丈夫だ」ヴァレンは、静かに、言った。「剣なら、負けん。心配、いらん」
「それでも」わたしは、窓の外の、闇を、見つめた。「怖いんです。数字なら、先が、読めます。でも、人の、命は、数字には、書けない。どんなに、備えても、防ぎきれないものが、ある。それが、怖い」
しばらく、沈黙が、続いた。それから、わたしは、ぽつりと、言った。自分でも、思いがけない、言葉だった。
「……わたし、一人で、抱えるのが、癖なんです」
ヴァレンが、こちらを、見た。
「ずっと、そうでした」わたしは、続けた。止まらなかった。「あの家でも、辛いことは、全部、一人で、抱えて。誰かに、話しても、どうせ、助けては、もらえない。だったら、話すだけ、無駄だと。……頼るのが、下手なんです。頼り方を、教わらないまま、大きくなったから。困っても、助けてと、言えない。言い方が、わからない」
言ってしまってから、少し、後悔した。こんな、弱音を、この人に、聞かせて、どうする。わたしは、辺境の、支えのはずなのに。
だが、ヴァレンは、呆れも、失望も、しなかった。ただ、静かに、聞いていた。そして、しばらくして、ぽつりと、言った。
「俺も、似たようなものだ」
意外な、言葉に、わたしは、顔を、上げた。
「兄のことだ」ヴァレンの声が、低く、沈んだ。「俺は、ずっと、兄を、恨んでいた。放蕩で、領を、傾けた、と。墓の前でも、詫びなかった。……でも、本当は、罠に、はめられていただけだった。俺は、それを、見抜けなかった。弟なのに。いちばん、近くにいたのに。兄が、一人で、苦しんでいたことに、気づきも、しなかった」
ヴァレンの、拳が、窓枠の上で、固く、握られた。
「俺は、それが、今も、悔しい。兄に、詫びたくても、もう、いない。だから、な。……あんたが、一人で、抱えるのを、見ていると、放っておけない。兄と、同じだと、思う。一人で、抱えて、倒れる。俺は、もう、二度と、それを、隣で、見過ごしたくない」
その言葉が、胸の、深いところに、届いた。この人の、不器用な、優しさの、根には、亡くなった兄への、悔いが、あった。だから、わたしが、一人で、抱えるのを、放っておけない。
「アデル」ヴァレンが、まっすぐに、わたしを、見た。「抱えなくて、いい。全部、一人で、背負わなくて、いい。俺が、いる。……頼り方が、わからないなら、少しずつ、覚えればいい。俺も、頼られるのは、下手だが。二人で、下手なりに、やればいい」
わたしは、言葉が、出なかった。目の奥が、熱くなる。頼っていい。その一言が、これほど、重く、これほど、温かいものだとは、知らなかった。ずっと、一人で、渡ってきた、綱の上に、初めて、誰かが、隣に、来てくれた。
「……ありがとう、ございます」わたしは、絞り出した。「あなたに、話したら、少し、軽く、なりました。不思議です。何も、解決していないのに」
「それでいい」ヴァレンは、ぶっきらぼうに、言った。「荷は、分けて、持てば、軽くなる。当たり前のことだ」
当たり前の、こと。この人にとっては、当たり前でも、わたしには、生まれて初めての、ことだった。荷を、分ける。誰かと。その、温かさを、わたしは、初めて、知った。
「変ですね」わたしは、少し、笑った。「わたしは、人の、家の帳簿を、いくつも、直してきました。困っている人に、こうすれば、楽になりますよ、と。人の、荷を、軽くするのは、得意なんです。なのに、自分の荷だけは、どう、分ければいいのか、わからなかった」
「人のことは、よく見える。自分のことは、見えん」ヴァレンが、静かに、言った。「俺も、同じだ。人の、武器の構えの、隙は、すぐ、わかる。だが、自分の、心の隙は、いちばん、見えなかった。兄のことも、そうだ」
「似た者、同士ですね」わたしは、言った。言ってから、その言葉の、近さに、少し、頬が、熱くなった。似た者同士。夫婦を、そう呼ぶには、まだ、照れくさかったけれど、けっして、嫌な、響きでは、なかった。
ヴァレンも、同じことを、思ったのか、ふいに、口を、つぐんで、窓の外に、目を、そらした。その、耳の先が、暗がりでも、わかるほど、赤かった。
二人は、しばらく、並んで、窓の外の、闇を、見ていた。もう、恐れは、薄れていた。同じ、闇を、二人で、見ている。それだけで、闇は、半分の、重さに、なった。
「明日から」わたしは、少し、落ち着いて、言った。「兄君の、こと。もう一度、調べたいんです。ロザリンドさんと、一緒に。ハルバの、過去の契約を、洗えば、お兄様が、罠に、かけられた証拠が、出てくるかもしれない。お兄様の、汚名を、晴らせるかもしれない」
ヴァレンが、深く、頷いた。「頼む。……いや」彼は、言い直した。「一緒に、やってくれ。俺も、逃げずに、向き合う。兄のことに」
「はい」わたしは、微笑んだ。「一緒に」
その、翌日。わたしと、ロザリンドが、ハルバの、過去の契約の、山を、洗い始めたとき。その、束の中から、一枚の、古い覚え書きが、滑り落ちた。ヴァレンの、兄の、死の、真相へと、つながる、最初の、糸口だった。




