第35話 買いすぎただけです
全70話完結予定です。毎日5話、7:10/12:10/17:10/20:10/22:10に更新します。
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崩れの、最初の音は、思ったより、早く、聞こえてきた。
「奥方様! 大変です!」マレナが、息せき切って、駆け込んできた。「ハルバが、倉の、麦を、投げ売りし始めました! 買ったときの、半値以下だって! 商人さんたちが、大騒ぎで!」
わたしは、静かに、その報せを、受け止めた。予想通り、だった。売れ残った、山を、これ以上、抱えきれなくなって、ハルバは、損を、覚悟で、放出に、踏み切った。だが、その、投げ売りが、値を、さらに、下げる。下がれば、買い手は、もっと、待つ。待たれれば、もっと、売れ残る。悪い、なだれが、始まった。
わたしは、市場の、動きを、日ごとに、追った。ハルバが、買い占めた、あらゆる品の、値が、坂を、転げ落ちるように、下がっていった。麦。木材。鉄。高く、買い占めたものほど、大きく、値を、下げ、大きな、損を、生んだ。
数日のうちに、その、損の、大きさが、噂として、辺境にも、伝わってきた。
「ハルバが、この、経済戦で、初めて、大きな損を、出したそうです」ロザリンドが、王都からの、便りを手に、言った。「それも、桁違いの。買い占めに、注ぎ込んだ金が、ほとんど、回収できない。……あの、大商会が、初めて、傾いだ」
「奪ったのでは、ありません」わたしは、静かに、言った。「わたしは、何も、していません。ハルバ商会が、買いすぎただけです」
それは、強がりでも、謙遜でも、なかった。事実だった。わたしは、ハルバの、倉に、指一本、触れていない。ただ、この土地の人々が、必要な品を、安く、買えるようにした。それだけだ。ハルバが、損をしたのは、ハルバが、強欲に、買い占めたから。積み上げた、その山の、重みで、自分から、傾いた。
「静かな、ものですね」ロザリンドが、感慨深そうに、言った。「あなたは、一度も、声を、荒らげない。一度も、相手を、罵らない。ただ、まっとうな商いをして、正しく、記録を、つけて。それだけで、悪意の、大きな山が、自分の、重みで、崩れていく」
「嘘や、強欲は」わたしは言った。「支えるのに、力が、要ります。買い占めた、山を、高く、売り抜くには、市場が、ずっと、思い通りに、動き続けないと、いけない。でも、市場は、正直です。誰の、思い通りにも、なりません。無理な、企みは、市場の、正直さの前で、いつか、必ず、綻びます。……わたしは、その、正直さを、信じて、待っただけです」
「一つ、伺っても」ロザリンドが、めずらしく、ためらいがちに、口を、開いた。「あなたは、この、ハルバの、損を見て……胸が、すきましたか。あなたを、辺境を、あれほど、苦しめた相手です。ざまを見ろ、と、思っても、おかしくない」
わたしは、少し、考えた。それから、正直に、答えた。
「思いません、と、言えば、嘘になります。少しは、ほっと、しました。もう、あの首輪に、怯えなくて、いいのだ、と」わたしは、静かに、続けた。「でも、それより、強いのは、安堵です。この土地の人たちが、これで、飢えずに、済む。ヴァレン様の、辺境が、守られる。……わたしの、喜びは、ハルバが、損をしたことでは、なく、守りたいものが、守れたこと。そちらのほうが、ずっと、大きいんです」
ロザリンドは、その答えを、しばらく、噛みしめていた。「……あなたは、憎しみで、動く人では、ないのですね。守りたいもので、動く」
「憎しみで、動くと、目が、曇ります」わたしは言った。「守りたいもので、動けば、目は、曇りません。どちらのほうが、数字を、正しく、読めるか。……答えは、決まっています」
やがて、この、ハルバの、大損は、思わぬ、余波を、生んだ。
商人たちの、ハルバ離れが、始まったのだ。これまで、ハルバの、力を、恐れて、従っていた、まわりの、商人たち。彼らが、ハルバの、初めての、つまずきを、見て、少しずつ、距離を、置き始めた。「あの商会も、絶対では、ない」。その、空気の、変化は、じわじわと、広がった。
そして、グラス伯爵にも、動揺が、走った。ハルバの、金で、大きな顔を、していた伯爵は、その、後ろ盾が、傾いだことで、急に、足元を、気にし始めた。金でつながった、だけの絆。損を、した瞬間、ほどけ始める。わたしが、前に、読んだ通りだった。
「潮目が、変わりました」わたしは、ヴァレンに、言った。「絶対だと、思われていた、ハルバに、初めて、傷が、ついた。傷ついた、大きな者からは、人が、離れます。これまで、恐れて、従っていた者ほど、掌を、返す。……ハルバは、これから、内側から、崩れ始めます」
ヴァレンは、感嘆と、少しの、恐れを、こめて、わたしを、見た。
「あんたは、恐ろしい、女だな」ぶっきらぼうに、そう言って、すぐに、慌てて、付け加えた。「……いや、頼もしい、という、意味だ。敵に、回さなくて、良かったと、心から、思う」
「わたしは、ただ、数字を、読んでいるだけです」わたしは、微笑んだ。「恐ろしいのは、わたしでは、なく、数字です。数字は、誰の、味方も、しません。ただ、正直な者の、隣に、いてくれるだけ。……嘘を、つく者の、隣には、いてくれない。それだけの、ことです」
辺境は、経済戦の、第一の、決着を、手に、した。ハルバに、初めて、大きな、損を、負わせた。剣を、抜かずに。声を、荒らげずに。ただ、正直な商いと、正直な記録で。
だが、わたしは、油断しては、いなかった。追い詰められた、獣ほど、恐ろしい、ものは、ない。理を、もって、戦えば、こちらが、勝つ。だからこそ、追い詰められたハルバは、理の、通じない、手段に、傾くかもしれない。
その、不吉な、予感は、当たった。数日後、辺境の、街道で、ヴァレンの、乗る馬車が、何者かに、襲われかけた、という報せが、届いた。
経済の、戦いが、剣の、戦いへと、姿を、変え始めていた。




