第32話 筆跡に、覚えがあります
全70話完結予定です。毎日5話、7:10/12:10/17:10/20:10/22:10に更新します。
面白い、続きが気になると思っていただけましたら、評価・ブックマークで応援していただけると励みになります。
「王都で、見つかった、告発、とは」わたしは、尋ねた。
ロザリンドは、少し、迷うように、間を、置いた。それから、職務の、範囲で、と、前置きして、話し始めた。
「ある日、会計院に、一通の、届け物が、ありました。差出人は、なし。中身は、王都の、いくつかの、貴族の家の、内情を、記した、帳簿の、写しでした。……それが、異様に、正確だった。表向きの、華やかな暮らしの、裏で、その家々が、どれほど、借金に、蝕まれ、どれほど、粉飾で、それを、隠しているか。細部まで、数字で、暴かれていた。会計院が、独自に、調べても、そこまでの、精度には、届かない。まるで、その家の、内側にいた者が、書いたような」
わたしの、鼓動が、速くなった。
「その、告発の、記録が、いくつかの、家を、指していました。テオドール伯爵家。ダルク子爵家。そして、それらの、家々の、借金の、影に、繰り返し、現れる、一つの、商会の名。……ハルバ、と」
「ハルバ」わたしは、思わず、繰り返した。辺境の敵が、その、告発の、中心に、いた。
「その、告発が、あまりに、正確で、無視できなかった」ロザリンドは、続けた。「会計院は、動かざるを、得なかった。指された、家々を、調べ始めた。その、調べの、糸を、たどると、ハルバの、影は、王都だけでなく、地方の、この、辺境にまで、伸びていた。だから、私は、ここまで、来たのです。辺境が、ハルバと、どう、関わっているのかを、確かめるために」
わたしは、その、告発の、記録を、見せてもらえないか、と、頼んだ。ロザリンドは、しばし、逡巡したが、写しの、一部を、卓に、広げてくれた。
その、頁を、見た瞬間。
わたしの、指が、細かく、震えた。
「……この、記録」わたしは、かすれた声で、言った。「筆跡に、覚えが、あります」
「なんですって」
「この、数字の、並べ方。この、几帳面すぎる、印のつけ方。この、余白の、使い方」わたしは、その頁を、指で、なぞった。目の奥が、熱くなる。「これは――わたしが、書いたものです。テオドール伯爵家を、去る前に。誰にも、告げず、書庫の、目立たない棚に、そっと、残してきた、本当の、帳簿。粉飾では、ない、ありのままを、記した、控え。……それが、なぜ、会計院に」
ロザリンドの、氷の目が、大きく、見開かれた。
「あなたが……あの、告発の、書き手」
「告発の、つもりは、ありませんでした」わたしは、正直に、言った。「ただ、残したかったんです。わたしが、あの家に、確かに、いて、確かに、正しい数字を、知っていたという、証を。いつか、誰かが、本当のことを、知りたくなったときのために。それが、こんな形で、王都を、動かすなんて――思っても、いませんでした」
誰が、その控えを、見つけ、会計院に、届けたのか。それは、わからない。父かも、しれない。家の、誰かかもしれない。追い詰められた、あの家で、藁にも、すがる思いで、わたしの、残した、正直な数字に、たどり着いた者が、いたのだ。
皮肉な、話だった。粉飾を、重ね、わたしを、追い出した、あの家。その家の、誰かが、最後の最後に、頼ったのが、追い出した娘の、残した、正直な帳簿だった。飾りに、飾った、嘘の数字では、どうにも、ならなくなって。溺れる者が、最後に、掴んだのが、いちばん、地味で、いちばん、正直な、一冊。……人は、本当に、追い詰められたとき、飾りには、すがれない。すがれるのは、正直なものだけだ。
わたしは、ふと、母のことを、思い出した。数字は、正直だから、いつか、あなたを、助けてくれる。幼いわたしに、そう、教えてくれた、母。その言葉が、こんな、遠い場所で、こんな形で、現実に、なるとは。
そして、その、一冊が。わたしが、あの家で生きた、たった一つの、正直な証が。いま、辺境の敵の、根を、断つ、公の、刃に、なろうとしている。
「不思議な、ものです」ロザリンドが、ぽつりと、言った。その声から、初めの、硬さが、消えていた。「あなたは、あの家に、恨みが、あるはずだ。追い出されたと、聞きます。なのに、あなたの、残した記録には、恨みの、色が、一つも、ない。ただ、事実だけが、並んでいる。腹立ちで、盛ることも、庇って、削ることも、していない」
「記録に、私情を、挟んだら」わたしは言った。「それは、もう、記録では、ありません。ただの、感想です。数字は、正直だから、力を、持つ。書き手の、都合で、曲げた瞬間、その力は、消えます」
ロザリンドは、しばらく、わたしを、見つめていた。それから、初めて、その、硬い口元が、ほんの、わずかに、ゆるんだ。
「……私も、同じことを、信じています。記録は、私情を、挟まない。だから、強い」彼女は、静かに、言った。「アデル様。あなたと、私は、たぶん、同じ、ものを、見ている。同じ、ものを、憎んでいる。数字を、ねじ曲げて、人を、食い物にする、その、やり方を」
冷たい査察官と、疑われた奥方。その間に、細い、けれど、確かな、糸が、通った。敵ではない。同じ、正しい記録を、信じる、同志。この、思いがけない、味方の登場に、わたしは、胸が、熱くなった。
「力を、貸してください」わたしは、頭を、下げた。「わたしの、残した記録が、あなたを、ここまで、導いたなら。今度は、その記録を、辺境を、蝕む根を、断つために、使いたい」
「それが、会計院の、務めです」ロザリンドは、頷いた。
だが、その、心強い、握手が、交わされた、まさに、その頃。ハルバは、待って、いなかった。城門に、早馬が、駆け込んでくる。ハルバが、辺境の、借金を、一括で、今すぐ、全額、返せと、迫ってきたのだ。
守りの、正念場が、同じ日に、始まろうとしていた。




