第3話 数字を読める妻
全70話完結予定です。毎日5話、7:10/12:10/17:10/20:10/22:10に更新します。
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三日後、その人は本当にやってきた。
前触れの手紙こそ短かったが、まさか辺境伯自らが、王都まで馬を飛ばしてくるとは思わなかった。応接間に通されたのは、背の高い、日に焼けた男だった。仕立ての良いとは言えない外套。剣だこの目立つ手。世辞を並べる口ではないと、一目でわかる顔だった。
「ヴェント辺境伯、ヴァレン・ヴェントだ」
彼はそう名乗ると、椅子に座るなり、本題に入った。前置きも、社交辞令もなかった。
「単刀直入に言う。俺の領は、金で潰れかけている。剣なら振れる。兵も率いられる。だが、帳簿が読めん。数字を読める妻が要る」
わたしは思わず、まじまじと相手を見てしまった。求婚というより、雇用の申し出に近い。けれど、そこに嘘や下心の匂いはなかった。むしろ、これほど正直な申し出を、わたしは初めて受けた気がした。
「なぜ、わたしを」
「王都で評判を聞いた。テオドール家の帳簿を五年、たった一人で回していた娘がいる、と。その娘が、婚約を切られたと」ヴァレンは短く息を吐いた。「切った側が、愚かだと思った。それだけだ」
胸の奥が、小さく揺れた。無能だと切り捨てられたのと同じ事実を、この人は、まるで逆の方角から見ている。
「条件書を、拝見しても」
「ああ。持ってきた」
差し出された縁組の条件書に目を通す。数行読んで、わたしは眉をひそめた。
「ここです。辺境伯領の税収の一部を、婚家側の管理下に置く、とあります。この書き方だと、返済が滞ったとき、領地そのものが担保として取り上げられかねません。どなたが、作られたのですか」
ヴァレンの眉が動いた。「……書式は、出入りの商会の者に任せた」
「商会」いやな予感がした。「ハルバ商会、ではありませんか」
「そうだが。なぜわかる」
わたしは答える代わりに、ペンを取り、その一項を静かに線で消した。
「この条項は、削ります。婚家の管理下ではなく、辺境伯領の帳簿として、わたしが直接扱います。担保に取られる余地を、残しません。これなら、お受けできます」
ヴァレンは、線を引かれた条項を、じっと見つめていた。それから、初めて表情らしきものを浮かべた。驚きと、ほんの少しの――安堵。
「あんた、書式を一度読んだだけで、そこまで読み取るのか」
「数字と条文は、正直ですから。人と違って」
彼は低く笑った。笑い方も、どこか不器用な人だった。喉の奥で、ぶっきらぼうに転がすような。
「……いい妻を、もらえそうだ」
社交辞令ではないのが、声でわかった。だからこそ、わたしはうまく返せなかった。ありがとうございます、と言うべきなのに、その言葉が喉の奥でつかえた。愛されるための言葉を、わたしはずっと、使わずに生きてきた。使い方を、忘れてしまったのだ。
「ひとつ、伺っても」わたしは話を戻した。話を戻すのは、得意だった。「辺境は、どれほど傾いているのですか」
ヴァレンの顔から、笑みが消えた。
「想像より、ひどいだろう。俺が継いだとき、すでに借金だけが残っていた。兄が――前の当主が、急に死んで、後に残ったのは、利率の高い借用証の束だけだった」
利率の高い借用証。前当主の、急死。頭の隅で、数字が小さく警鐘を鳴らした。まっとうな商人は、相手にそこまで不利な条件を呑ませない。呑ませれば、いずれ相手が潰れて、貸した金が返らなくなるからだ。それでも呑ませたなら――返ってこなくても構わない、別の狙いがあることになる。
けれど、それはまだ口にしなかった。確かめてもいない憶測を、確かな数字のように扱うわけにはいかない。それは、わたしが最も嫌うことだ。
「お兄様は、どんな方だったのですか」代わりに、わたしはそう尋ねた。
ヴァレンは、しばらく黙っていた。「まっすぐな男だった。領民思いで、俺よりずっと、当主に向いていた。……だから、わからん。あんなに慎重だった兄が、なぜ、あんな借金を背負ったのか」
「慎重な方が、無茶な借金を」わたしは、その言葉を、頭の帳簿に書き留めた。「それは、覚えておきます」
慎重な人間が、破滅的な契約を結ぶ。理由は、二つしかない。だまされたか、追い込まれたか。どちらにせよ、そこには、その人以外の手が、必ず加わっている。
「妙なことを訊くが」ヴァレンが、ふと言った。「あんたは、なぜ、そんなに数字を信じる」
わたしは少し考えて、答えた。
「人は、わたしに嘘をつきました。優しい顔で、平気で。でも、数字は、一度も裏切りませんでした。合わないときは、必ず、どこかに理由がある。ごまかしても、いつか、正直に語ってくれる。……だから、信じられるんです。数字だけは」
ヴァレンは、その答えを、静かに受け止めた。憐れむでも、笑うでもなく。ただ、深く頷いた。それが、なぜだか、少しだけ、救われるようだった。
「わかりました」わたしは立ち上がり、膝を折った。「妻として、そして帳簿方として、お仕えします。ヴェント辺境伯」
「ヴァレンでいい」彼はぶっきらぼうに言った。「これから、同じ帳簿を見る仲だ」
同じ帳簿を見る仲。奇妙な求婚の言葉だった。けれど、わたしには、それがどんな甘い睦言よりも、まっすぐに聞こえた。
窓の外に、北へ続く街道が見えた。まだ見ぬ辺境。傾いた帳簿。そして、隣に立つ、この不器用な人。
誰にも必要とされなかった力を、必要としてくれる人がいる。ただそれだけのことが、こんなにも足元を確かにするのだと、わたしは知らなかった。
わたしの二度目の帳簿が、その果てで開かれるのだと、そのとき初めて、静かに思った。




