第2話 わたしがいなくなる家
全70話完結予定です。毎日5話、7:10/12:10/17:10/20:10/22:10に更新します。
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翌朝、わたしは書斎にこもって帳簿を開いた。
テオドール伯爵家の帳簿は、表向き三冊ある。だが本当に意味があるのは、机の奥の引き出しにしまった、四冊目だった。表の三冊は、父に見せるための、体裁のいい数字。四冊目は、この家の本当の姿だ。
借入が、年の収入の四倍。
数字を追うたびに、胸の底が冷えていく。見栄で買った馬車が二台、乗られないまま厩で埃をかぶっている。使わない別邸の維持費。妹の新しいドレスが、季節ごとに三着。父が賭博で作った、いくつもの穴。そのすべてを、わたしは領地の税収の前借りと、商会からの短期の借金でやりくりしてきた。綱の上を、目隠しで歩くように。あと一歩どこかを踏み外せば、家ごと落ちる。
「アデル、いるか」
父が入ってきた。まだ酒の匂いが残っていた。
「昨夜のことは聞いた。まあ、いい。セシリアがダルク家に入るなら、それはそれで悪くない縁だ。子爵家との縁は、切れずに済む」
「お父様」わたしは羽根ペンを置いた。「この家の借入残高を、ご存じですか」
「金の話はお前に任せてある。そういうのは得意だろう」
「では、ひとつだけ申し上げます。来月、ハルバ商会への返済が来ます。それを払うと、再来月に予定していた税の前借りが、もう効きません。前借りの前借りは、できませんから。そうなると、三月後には、使用人の給金が出せなくなります」
父の顔が、ほんの一瞬だけこわばった。それからすぐに、いつもの鷹揚な笑みに戻る。
「大げさだな。お前が、なんとかするだろう」
――なんとかする。この五年、ずっとそう言われてきた。なんとかしてきたから、誰も、なんとかしなければならない状況だったことに気づかない。
わたしは静かに首を横に振った。
「わたしは、家を出ます。嫁ぐか、どこかへ勤めるか。いずれにせよ、もう、この帳簿を締める者はいなくなります」
父は笑った。冗談だと思ったのだろう。「セシリアがいるだろう」
セシリア。妹は、生涯で一度も帳簿を数えたことがない。刺繍と、社交と、鏡の前の時間で育った子だ。それが悪いわけではない。ただ、この家の綻びを縫える手ではない。針の持ち方を、知らないのだから。
わたしは四冊目の帳簿を閉じ、父の前に、表の三冊だけを残した。
「引き継ぎの書付は、この机の一番上の引き出しに入れておきます。読める方が、いればよいのですが」
父は答えなかった。何を言われているのか、たぶん半分もわかっていない。それでいい。全部わかってしまえば、きっと引き止められる。この沈む船に、また縛りつけられる。
昼を過ぎて、わたしは自室で荷物をまとめた。持っていくものは、驚くほど少ない。ドレスは二着。あとは、母の形見の小さな計算板と、五年分の記憶。物を増やす余裕など、この家にはなかった。増やしていたのは父と妹で、減らしていたのはわたしだった。
窓の外で、妹が友人たちと笑っていた。婚約の話をしているのだろう。ダルク子爵家の、金糸で縁取られた未来を。
その未来が、どれだけ薄い紙の上に立っているか、あの子は知らない。紙の下には、何もない。ただ、借金という名の空洞があるだけだ。
昼過ぎ、その妹が、わたしの部屋に顔を出した。
「お姉様、荷造り? 本当に出ていくのね」セシリアは、悪びれもせずに笑った。「ねえ、家のお金のことだけど。毎月、どこからどれくらい入ってくるの? わたし、ダルク家に嫁ぐ前に、少し知っておきたくて」
わたしは手を止めて、妹を見た。「収入は、領地の税と、王都の借家の賃料。でも、その半分以上は、もう来月の返済で消えるわ。手元に自由に使えるお金は、あなたが思っているより、ずっと少ないの」
「返済? なんの?」
「借金の。この家の」
セシリアは、きょとんとした顔をした。心の底から、意味がわかっていない顔だった。「うちに、借金なんてあるの? だって、毎年あんなにお金を使ってるじゃない」
――使っているから、借金があるのだ。
その一言を、わたしは飲み込んだ。言っても、たぶん伝わらない。この子には、使うお金と、ある金の区別が、ついていない。それは罪ではない。ただ、この家の帳簿は、もう、この子には縫えないというだけだ。
「引き継ぎの書付を、机に置いておくわ」わたしはそれだけ言った。「困ったら、読んでみて」
セシリアは「よくわからないけど、ありがとう」と、あっさり部屋を出ていった。その後ろ姿を見送りながら、わたしは、この家の三月後を、また一つ、正確に思い描いた。
わたしは荷を置いて、もう一度だけ机に向かった。最後に、この家の正しい姿を、一枚の紙に丁寧に写しておこう。借入の総額。返済の期日。前借りの限界。すべてを、隠さず、正確に。いつか誰かが、この家がなぜ潰れたのかを知りたくなったときのために。
――念のため。
数字は、いつか必ず語る。今はまだ、誰も耳を貸していないだけだ。写しを二枚作り、一枚を机の奥に、もう一枚を自分の荷に忍ばせた。理由は、自分でもうまく言えなかった。ただ、正しい記録は、いつかどこかで意味を持つ。そういう予感が、指先にあった。
ペンを走らせていると、扉を叩く音がした。使用人が、一通の手紙を差し出す。
「お嬢様、北から早馬で。ヴェント辺境伯様より、と」
辺境伯。名前だけは知っている。大陸の北の果て、荒れ果てた辺境を守る、無愛想な武人。会ったこともない相手が、なぜわたしに。
封を切ると、短い、飾り気のない文字が並んでいた。
『貴殿を妻に迎えたい。家格は問わぬ。数字を読める者が要る』
愛の言葉は、ひとつもなかった。それなのに、この五年で受け取ったどんな言葉よりも、まっすぐに胸に届いた。




