第1話 三百二十ゴルドの綻び
全70話完結予定です。毎日5話、7:10/12:10/17:10/20:10/22:10に更新します。
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「アデル・テオドール。君との婚約を、解消させてもらう」
夜会の広間の中央で、リオネル・ダルクははっきりとそう言った。楽団の音が止み、人々の視線が一斉にわたしへ集まる。彼の隣には、妹のセシリアが頬を上気させて立っていた。二人の距離の近さが、言葉より先にすべてを語っていた。
「君は無能だ。華もなければ、気も利かない。伯爵家の顔には、到底ふさわしくない」
くすくすと笑い声が広間の隅で漏れる。誰かが扇の陰でささやく。可哀想に、とでも言っているのだろう。わたしは手にした扇をそっと閉じ、静かに膝を折った。
「承知しました」
たったそれだけ。リオネルが拍子抜けした顔をした。泣いてすがると思っていたのだろう。妹が「お姉様、ごめんなさい」と芝居がかった声を出したが、その目はまるで笑っていた。勝った、と書いてあった。
わたしは怒らなかった。怒っても、数字は変わらない。
顔を上げて、リオネルを見る。この人は、自分の家の帳簿を一度でも開いたことがあるのだろうか。たぶん、ない。開いていれば、今夜の夜会に金糸の新調した上着で現れる余裕などないと、すぐにわかるはずだから。
「ひとつだけ、お伝えしておきます」
「なんだ、未練か」
「いいえ。ダルク子爵家の、贈答費のことです」
広間が少しざわめいた。別れ話の続きに、恨み言でも聞けると思ったのだろう。わたしは声を落として続けた。
「先月の社交費、帳簿に記された額と、実際に支払われた額が、三百二十ゴルドほど合いません。差は毎月、少しずつ増えています。念のため、家令の方にお確かめください」
リオネルの眉が寄った。「なんの話だ、いきなり」
「わたしが帳簿を見なくなれば、いずれ膨らむ差です。今なら、まだ小さい。だから、今のうちに、と」
「相変わらず、数の話ばかりだな」彼は鼻で笑った。「そういうところだ。だから愛想を尽かされる」
そうかもしれない。わたしは深く頭を下げ、広間に背を向けた。背中に嘲笑が刺さったが、不思議と痛みはなかった。痛むほどの期待も、もう残っていなかったのだと思う。期待という項目は、五年前にわたしの帳簿から消えていた。
控えの間で外套を受け取り、夜気の中へ出る。石畳に馬車の車輪の音が響いた。乗り込むと、白髪の御者が心配そうに振り返った。
「お嬢様、その……よろしかったので」
「ええ。もう、わたしの仕事ではありませんから」
窓の外を、王都の灯りがゆっくりと流れていく。わたしはこの五年、テオドール伯爵家の帳簿を、たった一人で回してきた。病がちな母に代わり、父の放蕩を埋め、見栄の出費をやりくりして、傾きかけた家をどうにか立たせてきた。誰にも知られず、誰にも褒められず。
それでも、数字だけはわたしを裏切らなかった。合わないものは、合わない。ごまかせば、いつか必ず露見する。嘘をつけば、その嘘を別の嘘で支えなければならなくなる。そうして支えきれなくなったとき、家は音を立てて崩れる。ただそれだけの、静かで、正直な世界だった。
膝の上で、指を組む。婚約者を失った。妹に居場所を奪われた。悲しむべきなのだろう。世間はきっと、そう言う。裏切られた令嬢、と。
けれど、頭の隅では、まったく別の声がしていた。
――あの家は、わたしがいなくなって、いったい何月、持つのだろう。
三百二十ゴルドの綻びは、始まりに過ぎない。父も妹も、リオネルも、その意味を知らない。知ろうともしないだろう。糸のほつれは、引けば引くほど大きく裂けていく。誰かがずっと縫い止めていたことにすら、気づかないまま。
指を折って、数えてみる。来月のハルバ商会への返済。再来月に切れる税の前借り。三月後の、使用人の給金。どこで最初に破れるかは、もう見えていた。見えているのに、わたしはもう、それを縫う立場ではない。
奇妙な感覚だった。肩の荷が下りたようで、けれど足元が急に頼りなくなったような。
母のことを、ふと思い出した。病がちだった母は、寝台の上で、よくわたしに帳簿の付け方を教えてくれた。数字は嘘をつかないのよ、アデル。人がどれだけ着飾っても、どれだけ立派なことを言っても、この一列を見ればわかる。その人が、本当は何を大切にしているのかが。
母が亡くなってから、わたしは一人で家の帳簿を握った。父の見栄も、妹の我儘も、全部この手で数字に均してきた。褒められたことは、一度もない。それでも、母の言葉だけは、ずっと本当だった。
リオネルの帳簿は、わたしに何を語っていただろう。金糸の上着、乗らない馬車、増える一方の贈答費。あの人が本当に大切にしているのは、たぶん、中身ではなく、外側だけだった。だから、中身しか見ないわたしとは、初めから合わなかったのかもしれない。
馬車が屋敷に着いた。門の灯りが、いつもより暗く見えた。倹約のために油を減らすよう指示したのは、ほかならぬわたし自身だったけれど。
屋敷の窓に、まだ明かりが灯っていた。父が、わたしの帰りも待たずに、また誰かと杯を交わしているのだろう。婚約が壊れたことも、この家がどこへ向かっているかも、あの人には、たぶん今夜の酒ほどの重さもない。
息を吐いて、扉に手をかける。明日から、この家の帳簿を締める。最後の仕事だ。丁寧に、正確に、一枚残らず。誰も読まないかもしれない。それでも、正しい記録を残すことだけは、わたしにできる、最後の誠実だった。
そして――出ていこう。数字の合う、どこか別の場所へ。
まだ、それがどこなのかは、知らないままに。




