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捨てられた会計令嬢、実家の粉飾ごと縁を切って辺境へ嫁ぎます ~数字は嘘をつきません。あなた方と違って~  作者: ヲワ・おわり


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第29話 ご温情の顔をした

全70話完結予定です。毎日5話、7:10/12:10/17:10/20:10/22:10に更新します。

面白い、続きが気になると思っていただけましたら、評価・ブックマークで応援していただけると励みになります。

使者が、卓に置いたのは、一通の、新しい契約書だった。


「手前どもも、鬼では、ございません」使者は、うやうやしく、切り出した。「辺境伯様の、ご領地が、たいそう、ご苦労なさっているのは、承知しております。そこで、ハルバ商会、特別の、ご温情をもちまして。今の、ご返済を、いったん、すべて、棚上げに。当面の、利も、免じましょう。……いかがです。ずいぶん、楽に、なられるはずで」


返済の、棚上げ。利の、免除。言葉だけを、聞けば、まさに、恵みの、雨だった。ヴァレンが、こちらを、うかがう。ギースが、期待と、不安の、入り混じった目で、契約書を、見つめた。


わたしは、その書面を、手に取った。


前と、同じだ。上等な紙。美しい文字。そして、恵み深い、表向きの、条文。だが、わたしは、もう、知っている。ハルバの、優しさには、必ず、裏がある。優しければ、優しいほど、その裏の、毒は、深い。


わたしは、条文を、一つずつ、指で、たどった。棚上げ。利の免除。ここまでは、書いてある通り。だが、その、見返りとして、辺境が、差し出すもの。それを、記した箇所が、ある。返済を、棚上げする、代わりに――。


指が、止まった。


読み進めるうちに、わたしは、この契約書の、巧妙さに、内心、舌を、巻いた。前の、借り換えのときより、ずっと、手が、込んでいる。毒は、一箇所に、書かれていない。あちこちの、条文に、少しずつ、ばらまかれ、一つ一つを、見れば、どれも、もっともらしい。それらを、つなぎ合わせて、初めて、全体の、罠の形が、浮かび上がる。読み手が、疲れて、途中で、投げ出すのを、待っているような、書き方だった。


「なるほど」わたしは、静かに、顔を、上げた。「よく、できています。返済を、棚上げする代わりに、辺境の、鉱山と、関所の、運営を、商会が、預かる。そう、書いてありますね」


「あくまで、ご返済が、整うまでの、一時の、お預かりで」使者は、笑みを、崩さない。


「一時、ですか」わたしは、次の条文を、指した。「では、この一文は。預かった運営を、辺境に、返す条件が、書いてあります。『商会が、経営の健全を、認めたとき』。……健全かどうかを、決めるのは、商会。つまり、商会が、うんと言わない限り、鉱山も、関所も、永遠に、返ってきません」


使者の、笑みが、わずかに、こわばった。


「返済を、免じる代わりに、辺境の、稼ぎ頭を、まるごと、明け渡せ。そして、それが、返ってくるかどうかは、こちらの、胸先三寸。……これは、ご温情では、ありません」わたしは、書面を、卓に、戻した。「ご温情の、顔をした、領地の、乗っ取り状です」


部屋の、空気が、張り詰めた。ヴァレンの、拳が、固く、握られる。


「借金の、返済は、続けます」わたしは、はっきりと、言った。「利が、高くても、こちらで、返します。棚上げも、免除も、要りません。鉱山と、関所は、辺境の、命です。命を、預けて、身軽になるくらいなら、重い荷を、背負ったまま、自分の足で、歩きます。……お断り、いたします」


使者は、しばらく、無言だった。恭しい、笑みが、ゆっくりと、顔から、剥がれ落ちていく。その下から、現れたのは、感情の、削げ落ちた、冷たい、素顔だった。


「……賢い、お方だ」使者は、低く、言った。もう、慇懃な、口調では、なかった。「賢すぎるのも、考えものですな。世の中には、読めないほうが、幸せな、数字も、ございます」


「読めなければ、幸せに、なれるなら」わたしは、静かに、返した。「この辺境は、とうに、幸せに、なっているはずです。読めなかったから、飢えたんです。読めなかったから、騙されたんです。もう、二度と、読まないふりは、しません」


使者は、立ち上がった。その目には、もう、商人の、愛想は、なかった。


「では、こう、申し上げましょう」使者は、扉の前で、振り返った。「手前どもは、これまで、ずいぶん、辛抱強く、手を、差し伸べてまいりました。それを、ことごとく、はねつけられた。……もう、手は、差し伸べません。次に、辺境と、ハルバが、向き合うときは、商いの、席では、ございませんよ」


事実上の、宣戦だった。もう、優しい顔は、しない。潰す。そういう、意思の、表明だった。


使者が、去ったあと、重い、沈黙が、残った。ギースが、震える声で、言った。


「奥方様……あれで、良かったのでしょうか。あの提案を、蹴って。相手を、本気で、怒らせて」


「良かったんです」わたしは、静かに、しかし、迷いなく、答えた。「あの提案を、受けていれば、辺境は、鎖に、つながれた、飼い犬に、なっていました。餌を、もらう代わりに、牙を、抜かれて。飢えは、しないけれど、二度と、自分の足では、立てない。……それは、生きているとは、言いません」


「それに、ギース」わたしは、老人を、見て、言った。「あの契約を、受けていたら、いちばん、困るのは、あなたです。鉱山と、関所の、運営が、商会のものに、なる。すると、そこで、働く人たちも、商会の、言いなりに、なる。賃金も、休みも、向こうの、胸先三寸。あなたが、心を、砕いてきた、この土地の人たちが、また、痩せていく。……そういう、未来を、蹴ったんです。震えることは、ありません」


ギースは、その言葉を、しばらく、噛みしめていた。それから、深く、頷いた。青ざめていた顔に、少しずつ、覚悟の、色が、戻っていく。


「……さようで、ございますな。目先の、楽に、飛びついて、この土地の、明日を、売っては、先代にも、申し訳が、立ちません。奥方様の、ご判断、わたくしめも、支えまする」


ヴァレンが、わたしの、隣に、立った。


「よく、言った」ヴァレンの声は、低く、けれど、揺るがなかった。「あんたの言う通りだ。飼われて、生き延びるくらいなら、立って、戦う。俺も、同じ、考えだ」


その言葉に、わたしは、背中を、支えられた気がした。決裂は、怖い。相手は、大きい。けれど、隣に、退かない人が、いる。それだけで、恐れは、半分に、なった。


「長い、戦いに、なります」わたしは、静かに、言った。「向こうは、本気です。こちらも、腹を、括らないと」


嵐の、口火は、切られた。もう、後戻りは、できない。わたしは、来るべき、長期戦に向けて、辺境の、すべての力を、どう、配るかを、考え始めていた。


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