第25話 あと十二日
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鉱山が、軌道に乗り、関所が、賑わい始めても、辺境の懐は、まだ、楽では、なかった。むしろ、いちばん、危ない時期が、これから、やってくる。
わたしは、一枚の表を作り、ヴァレンとギースの前に、広げた。日付が、横に、ずらりと、並んでいる。その下に、入ってくる金と、出ていく金が、日ごとに、書き込まれていた。
「資金繰り表、と言います」わたしは、説明した。「儲かっているか、ではなく、その日、財布に、お金が、あるか。それを、日ごとに、見る表です」
「儲かっていれば、金は、あるのでは、ないのか」ヴァレンが、訝しんだ。
「それが、違うんです」わたしは、首を振った。「帳簿の上では、黒字でも、財布が、空になることが、あります。銅を、売った代金が、入るのは、来月。でも、鉱夫への賃金や、街道の普請の支払いは、今月。そして――」わたしは、ある一日を、指した。「この日に、ハルバへの、借金の、返済期限が、来ます」
その一日に、出ていく金の額は、他の日より、はるかに、大きかった。
「見てください」わたしは、表を、指でたどった。「この日から、十二日のあいだ、辺境の財布は、ぎりぎり、綱の上を、渡ります。銅の代金が、入る前に、返済と、支払いが、重なる。一日でも、順番が、狂えば、財布が、底を、つく。払えなくなれば、ハルバは、待ってましたと、担保の、鉱山と関所を、取り立てにきます」
部屋に、緊張が、走った。ギースの顔が、白くなる。
「では……どうすれば」
「慌てません」わたしは、努めて、静かに言った。「見えているなら、備えられます。怖いのは、見えない綻びです。この十二日は、見えています。だから、渡り方を、決めておけば、渡れます」
わたしは、その十二日の、一日ごとの、金の回し方を、組み立てた。どの支払いを、先にして、どれを、少し、待ってもらうか。鉱夫への賃金は、一日も、遅らせない。彼らの、暮らしが、かかっているからだ。街道の普請の、材木代は、相手に、事情を話して、数日、待ってもらう。北の林業の領とは、もう、信頼が、できている。話せば、待ってくれるはずだ。
「支払いには、順番が、あります」わたしは言った。「遅らせて、いいものと、絶対に、遅らせて、いけないもの。人の、暮らしが、かかっているものは、何より、先に。待ってもらえる相手には、頭を下げて、待ってもらう。その、見極めを、間違えなければ、少ない金でも、回せます」
だが、それでも、一日だけ、どうしても、金の、足りない日が、あった。返済の期限と、賃金の支払いが、どうしても、重なる、その一日。わたしが、その一点を、どう埋めるか、思案していると、ヴァレンが、静かに、口を開いた。
「その日の、足りない分は、俺が、出す」
わたしは、顔を、上げた。
「亡くなった、母の形見の、剣がある」ヴァレンは、言った。「業物だ。あれを、質に入れれば、その一日は、越えられる。銅の代金が、入れば、すぐに、請け出せる」
「そんな、大切なものを」わたしは、思わず、言った。「形見を、質になんて」
「物より、領のほうが、大事だ」ヴァレンは、静かに、笑った。「それに、母上は、剣を、飾っておくより、こういうときに、使うほうを、喜ぶ人だった。……それに、な。あんた一人に、綱を渡らせて、俺が、何もしないわけには、いかん。俺にも、背負わせてくれ」
その言葉に、わたしは、胸が、詰まった。これまで、綱の上は、いつも、一人で、渡ってきた。あの家でも、辺境に来てからも。荷は、一人で、背負うものだと、思っていた。
「……ありがとう、ございます」わたしは、言った。「では、お借りします。あなたの、力を。一人で、渡るより、二人のほうが、きっと、綱は、揺れません」
言ってから、自分の言葉に、少し、驚いた。力を、借ります。頼る、ということを、わたしは、たぶん、生まれて、初めて、自分から、口にした。それは、思っていたより、ずっと、怖くなくて、むしろ、温かかった。
十二日の、綱渡りが、始まった。一日、また一日と、わたしは、表の、日付を、消していった。賃金を、払い、支払いを、繰り、ヴァレンの、形見が、一日を、支えた。皆が、息を、詰めて、その一日一日を、見守った。
途中、思わぬ、ほころびも、あった。銅の、買い手の一人が、支払いを、数日、遅らせると、言ってきたのだ。予定していた金が、入らない。表の、綱が、たわむ。
「落ち着いて」わたしは、自分にも、言い聞かせるように、言った。「一つ、狂ったら、表を、引き直せばいい。入る金が、遅れるなら、出る金も、遅らせる。待ってもらえる先を、もう一度、洗い直します」
わたしは、その夜、表を、丸ごと、組み替えた。遅れた収入に合わせて、支払いの順番を、また、並べ替える。一睡も、しなかった。だが、翌朝には、新しい、渡り方が、できていた。狂っても、そのたびに、引き直せば、綱は、切れない。大事なのは、一度組んだ表に、しがみつくことでは、なく、狂いを、すぐに、数字に、映し直すことだった。
「あんたは」ヴァレンが、疲れた顔のわたしに、温かい茶を、差し出した。「危ないときほど、静かになるな」
「慌てても、数字は、変わりませんから」わたしは、茶を、両手で、包んだ。じんわりと、温かい。「それに――一人じゃ、ないと、思うと、不思議と、慌てないんです」
そして、十二日目。銅の、初めての、大きな代金が、辺境の、財布に、流れ込んだ。綱の、向こう岸に、辺境は、渡りきった。財布は、空にならず、担保は、守られ、ヴァレンの形見も、すぐに、質から、戻ってきた。
「越えた」ヴァレンが、深く、息を吐いた。
「越えました」わたしは、頷いた。全身から、力が、抜けていく。緊張の、糸が、ほどけた。
だが、ほっとしたのも、束の間だった。数日後、王都から、不穏な報せが、届いた。ハルバ商会が、辺境を、力で崩せないと見て、新しい手を、打ってきた。今度は、一人では、なかった。辺境に、恨みを持つ、ある貴族と、手を、結んだという。
経済戦は、商会一つとの、戦いから、もっと、大きく、厄介なものへと、姿を、変えようとしていた。




