第18話 間に合わない、と書く
全70話完結予定です。毎日5話、7:10/12:10/17:10/20:10/22:10に更新します。
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お前しか、この家の帳簿を、直せる者がいない。
父の、その一行を、わたしは、幾度も、読み返した。
助けを乞う言葉のはずなのに、そこには、詫びの一つも、なかった。追い出したことへの後悔も、これまでのことへの謝罪も。ただ、困っているから、戻って直せ、と。それが、あの父の、精いっぱいだった。都合のいいときだけ、娘を、道具として、思い出す。
不思議と、腹は、立たなかった。腹を立てるには、もう、あの家に、心を、残していなかった。ただ、一人の帳簿を読む者として、父の家の数字が、いま、どういう状態にあるのかを、わたしは、頭の中で、たどってみた。
滞り始めた支払い。渋られる掛け売り。傾く信用。そして、それらの下に、長年、わたしが縫い続けてきた、粉飾の縫い目。わたしがいなくなって、一年。縫い目は、次々と、ほどけているだろう。
そこまで考えて、わたしは、一つの結論に、行き着いた。
「もう、間に合いません」
声に出すと、それは、はっきりと、事実の形をした。
わたしは、机に向かい、返事を、書き始めた。恨み言は、一言も、書かなかった。ただ、数字を読む者として、見たままを、書いた。
――お父様。ご報告いたします。テオドール伯爵家の帳簿は、もう、直せる段階を、過ぎています。
滞った支払いが、次の支払いを、遅らせる。遅れた分に、信用の目減りが、乗る。目減りした信用が、掛け売りを、さらに渋らせる。一つの遅れが、次の遅れを呼ぶ、その連なりが、もう、止まらない速さで、回り始めている。ここまで来ると、一人が、いくら夜通し帳簿を直しても、追いつかない。穴を一つふさぐ間に、別の穴が、三つ開く。
――わたしが戻っても、できるのは、崩れる時を、また少し、先延ばしにすることだけです。それは、直すこととは、違います。膿を、覆い隠すだけです。覆えば覆うほど、最後の崩れ方は、ひどくなります。
わたしは、筆を止めた。ここで、優しい嘘を、書くこともできた。なんとかします、と。だが、それは、父のためにも、ならない。直せないものを、直せると言うのは、帳簿を読む者の、最もしてはならない嘘だ。数字は、間に合うか、間に合わないかを、正直に告げる。わたしが、それを、ねじ曲げてはいけない。
――わたしはもう、あの家の帳簿方では、ありません。そして、数字は、間に合いません。どうか、覆い隠すのではなく、正直に、負債を認め、家を、身の丈まで、畳んでください。それが、いちばん、傷の浅い道です。それだけが、わたしに、お伝えできることです。
書き終えて、わたしは、しばらく、その返事を、見つめていた。
一つだけ、書き添えなかったことがある。あの家を去る前、わたしは、自分がつけてきた本当の帳簿を――粉飾ではない、ありのままの数字を記した控えを、一冊、そっと、家の書庫の、目立たない棚に、残してきた。誰かが、いつか、本当のことを知りたくなったときのために。父も、セシリアも、その存在を、知らない。あれは、わたしがあの家に生きた、たった一つの、正直な証だ。
いまは、それが、何の役に立つのかも、わからない。ただ、嘘の帳簿が崩れきったあと、正しい数字だけが、最後に、物を言う日が来る。そんな気が、なぜか、していた。
これで、あの家との糸は、完全に、切れる。育った家。母の記憶の残る家。理不尽と、居場所のなさに、耐え続けた家。恨みも、未練も、ないつもりだった。それでも、いざ、自分の手で、最後の糸を切ろうとすると、胸の奥が、しんと、静かに、痛んだ。
未練とは、少し違う。もっと、根の深い、寂しさのようなものだ。いらない子だったけれど、それでも、そこが、わたしの生まれた場所だった。その場所が、崩れていくのを、わたしは、もう、止めない。止めない、と、決めた。
扉の外に、気配がした。ヴァレンだった。何も言わず、少し離れた場所に、立っている。わたしが、王都からの手紙で、揺れていることを、たぶん、察して。
「戻らなくて、いいのか」ヴァレンが、静かに、尋ねた。「育った、家だろう」
「戻りません」わたしは、返事を、封に納めた。「戻っても、直せないものを、直せると、嘘をつくことになります。それは、あの家のためにも、なりません。……それに」
わたしは、顔を上げて、ヴァレンを見た。
「わたしの居場所は、もう、あそこには、ありません」
ヴァレンは、少しのあいだ、黙っていた。それから、ぶっきらぼうに、言った。
「そうか」
たった一言。けれど、その一言に、余計な同情も、無理な励ましもなくて、だからこそ、楽に、息が、できた。この人は、踏み込まない。踏み込まないことで、そばにいてくれる。
わたしは、書き上げた返事を、ギースに託した。王都へ、届けるように、と。封が、使者の手に渡り、部屋を出ていくのを、わたしは、見送った。過去が、その封と一緒に、静かに、遠ざかっていく気がした。
痛みは、あった。けれど、その痛みの、すぐ後ろに、これまで感じたことのない、軽さがあった。もう、誰かの家の綻びを、夜通し縫わなくていい。わたしは、自分の選んだ土地の、自分の選んだ数字だけを、まっすぐに、見つめていればいい。
去りぎわ、ヴァレンが、廊下へ出ようとして、ふと、足を止めた。背を向けたまま、少し、言いにくそうに、口を開く。
「あんたは……あの家で、ずっと、一人で、あの帳簿を、支えていたんだな。誰にも、礼を言われずに」
わたしは、返事に、詰まった。そんなふうに、言われたことは、なかったから。当たり前の役目として、誰にも気づかれずに、やってきたことだった。
「よく」ヴァレンは、そこで、少し言葉を探した。「……よく、ここまで、やってきた。あんたは」
それだけ言って、ヴァレンは、逃げるように、廊下へ出ていった。耳の先が、赤かった気がしたが、確かめる間もなかった。
残されたわたしは、その、不器用な一言を、胸の中で、そっと、繰り返した。よく、ここまで、やってきた。誰にも言われなかった言葉。言われる日など、来ないと思っていた言葉。それが、思いがけない人の口から、こぼれ落ちた。
その夜、辺境の空は、よく晴れて、星が、痛いほど、澄んでいた。胸の奥の、切れたばかりの糸の跡が、その言葉のおかげで、少しだけ、疼きを、やわらげていた。




