第17話 二つの家の、決算
全70話完結予定です。毎日5話、7:10/12:10/17:10/20:10/22:10に更新します。
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父からの封書を、わたしは、すぐには開かなかった。
まず、やるべきことがある。辺境の、四半期の決算を、締めることだ。私情で手が乱れる前に、数字を、確定させておきたかった。わたしは、封書を引き出しにしまい、帳簿に向かった。
三月分の、すべての出入りを、突き合わせる。関所の税。鉱山の初めての売り上げ。無駄を削った分。備蓄の配分でしのいだ、冬の食費。一つ一つを、確かめながら、最後の一行を、書き込んだ。
「黒字です」わたしは、静かに、ヴァレンとギースに告げた。「わずかですが、この三月、辺境は、初めて、稼ぎが、出費を、上回りました」
ギースが、震える手で、その数字を見た。長年、赤字ばかりを書き続けてきた男の目に、涙が、にじんでいた。
「黒字……。この辺境が……」
「わたくしめは」ギースは、袖で目元を押さえた。「先代の、そのまた先代から、この城の帳面を、預かってまいりました。赤い数字を書くたびに、腹を切る思いで。……もう、黒い数字を書くことなど、生きているうちには、ないものと、諦めておりました」
「あなたが、諦めずに、記録を残してくれたからです」わたしは言った。「もし、あなたが、いい加減な帳面をつけていたら、わたしは、どこから手をつければいいか、わからなかった。赤字でも、正直に書き続けた記録があったから、直せたんです。あなたの、几帳面さが、この黒字を、支えています」
ギースは、こらえきれずに、洟をすすった。長年の労を、初めて、数字の側から、ねぎらわれた顔だった。
「まだ、喜ぶには早いです」わたしは、努めて、冷静に言った。「借金の首輪は、まだ、外れていません。この黒字も、少しの狂いで、赤に戻ります。でも――」わたしは、そこで、少しだけ、声を和らげた。「でも、証明はできました。この土地は、立て直せる。死にかけていたのではなく、ただ、正しく数えられて、いなかっただけだと」
ヴァレンは、その一行を、長いあいだ、見つめていた。それから、ぽつりと、「ここまでは、計画通り、か」と、わたしの口癖を、真似た。ぶっきらぼうな声に、隠しきれない誇らしさが、にじんでいた。
決算を締めたその夜。わたしは、ようやく、父の封書を、開いた。
そして、遠い王都で、いま、何が起きているかを、知った。
父の筆は、乱れていた。テオドール伯爵家は、支払いが、あちこちで、滞り始めている。出入りの商人が、掛け売りを渋り出した。使用人への給金も、遅れがちだという。そして、隣家の――婚約者だったリオネルの、ダルク子爵家も、同じように、傾いている。両家は、社交界で、じわじわと、信用を失いつつあった。
わたしが去ったのは、まだ、一年も、経っていない。けれど、綻びは、思ったより、速く、広がっていた。
無理も、ない。わたしは、目を閉じた。あの家の帳簿は、長いあいだ、わたし一人が、辻褄を合わせ、崩れそうな箇所を、先回りして、縫い続けていた。表向きの華やかさは、その裏で、誰かが必死に、糸を通し続けていたから、保たれていた。
その、縫う手が、いなくなった。
「セシリアさんは」わたしは、思わず、呟いた。父の後妻の連れ子。わたしから、婚約者も、家での居場所も、奪っていった人。「あの人は、帳簿を、読めるのかしら」
答えは、封書の行間に、書いてあった。読めていない。もし読めていたなら、こんなに速く、こんなに派手には、崩れない。おそらく彼女は、いま、なぜ金が回らないのかもわからないまま、周りの使用人に、当たり散らしているのだろう。金がないのは、誰かのせいだ、と。
その姿が、目に浮かぶようだった。わたしを追い出したとき、彼女は、勝ち誇っていた。帳簿方など、代わりはいくらでもいる、と。けれど、代わりは、いなかった。数字は、身分や、美しさや、声の大きさでは、動かない。ただ、読める者にだけ、本当のことを、告げる。
わたしは、去り際の、あの一室を、ふと思い出した。セシリアは、わたしが差し出した帳簿を、ろくに見もせず、わきへ押しやった。数字の並んだ紙が、まるで、汚いものであるかのように。そして、言ったのだ。こんな地味な仕事、下働きに任せておけばいい、と。
彼女にとって、帳簿は、下働きの仕事だった。華やかな社交や、美しい装いの、下にあるもの。けれど、その地味な紙の上でこそ、家の生き死には、決まる。着飾るための金が、どこから来て、どこへ消えるのか。それを読めない者が、いくら着飾っても、足元の氷は、静かに薄くなっていく。彼女は、たぶん、いまごろ、その氷の薄さを、初めて、足の裏で感じている。
わたしは、不思議と、胸が、すいたりは、しなかった。ざまあみろ、とも、思わなかった。ただ、静かに、数字が、いつもの仕事を、しているだけだった。嘘を、支えきれなくなった帳簿が、正直に、崩れていく。それだけのことだった。
「どうした」ヴァレンが、わたしの表情を、うかがった。「王都は、荒れているのか」
「ええ」わたしは、封書を、たたんだ。「わたしのいた家が、傾いています。婚約者だった人の家も。……皮肉なものです。同じ一年で、片方は、黒字になり、片方は、崩れていく。同じ数字の理が、正反対の景色を、描いています」
「あんたを、追い出した家だ」ヴァレンが、低く言った。「気に、病むな」
「病んでは、いません」わたしは、正直に答えた。「ただ、少し、思うんです。あの家を、傾かせたのは、わたしが去ったから、ではありません。わたしがいなくても、いずれ、こうなっていた。わたしは、崩れる時を、少し、先延ばしにしていただけ。……嘘の帳簿は、遅かれ早かれ、必ず、合わなくなります。それだけのことなんです」
言いながら、わたしは、自分の声が、思ったより、凪いでいることに、気づいた。あの家に、もう、痛みはなかった。ただ、数字が告げる結末を、少し離れた場所から、見届けているだけだった。
けれど、父の封書は、ただの近況では、なかった。最後の数行に、父の、本当の用件が、書かれていた。読んで、わたしは、しばらく、動けなかった。
――アデル。お前しか、この家の帳簿を、直せる者が、いない。
追い出した娘に、父は、助けを、乞うていた。




