第16話 浪費と、見せかけられた浪費
全70話完結予定です。毎日5話、7:10/12:10/17:10/20:10/22:10に更新します。
面白い、続きが気になると思っていただけましたら、評価・ブックマークで応援していただけると励みになります。
在庫帳の乱れが始まった年。その一年の帳簿を、わたしは、城の一室にこもって、朝から読み込んだ。
兄が、当主だった、最後の年の記録だ。
読み進めるうちに、わたしの背筋は、じわじわと、冷えていった。乱れているのは、蔵の記録だけでは、なかった。城の支出そのものが、ある月を境に、突然、おかしくなっていた。
「……これは」
わたしは、思わず、声を漏らした。
たった三月のあいだに、途方もない額の金が、出ていた。宝飾品。高価な酒。遠方の職人への、法外な前払い。それまでの、堅実そのものだった帳簿からは、考えられない使い方だった。まるで、別人が、財布を握ったかのように。
わたしは、その支出の一つ一つを、洗った。買った相手。届いた品。日付。すると、奇妙なことに気づいた。
宝飾品も、酒も、注文の記録はある。金を払った記録もある。だが――品が、城に届いた記録が、ない。
「買ったのに、届いていない」わたしは、独りごちた。「あるいは、届いたことに、なっていない。……買った、というのは、本当なのかしら」
わたしは、支払先の名も、書き出してみた。宝飾を売ったという商人。酒を納めたという店。前払いを受けたという遠方の職人。名前だけは、もっともらしく並んでいる。だが、そのどれも、この辺境と、それまで、取引をしたことのない相手だった。ある月に、いきなり現れ、大金を受け取り、そして、二度と、記録に出てこない。
「幽霊です」わたしは、その名前の列を、指でたどった。「品を届けない売り手。取引の前も後もない相手。こういうのを、帳簿の世界では、幽霊と呼びます。名前だけあって、中身がない。金を、どこかへ運び出すための、通り道です」
一度、幽霊の名義を通せば、金は「支払った」ことになる。城の帳簿の上では、正しく消える。けれど、実際には、その金は、幽霊の向こうにいる、誰かの懐へ、流れ込む。兄の財布から、静かに、抜き取られていく。
背筋の冷えが、確信に変わっていった。これは、浪費では、ない。浪費に、見せかけられた、何かだ。
その夜、わたしは、ヴァレンを部屋に招いた。兄の帳簿を、卓に広げる。
「お兄様のことで、伺いたいことがあります」わたしは、静かに切り出した。「不躾でしたら、答えなくて、かまいません」
ヴァレンは、帳簿に目を落とし、しばらく黙っていた。それから、低い声で言った。
「兄は……最後の頃、人が変わったと、皆が言った。急に、金づかいが荒くなった。宝石を買った、と噂が立った。真面目だけが取り柄の男が、なぜ、と」
「そのお金で買ったという品を、あなたは、見ましたか」
ヴァレンの動きが、止まった。長い、沈黙があった。
「……いや」やがて、絞り出すように、言った。「一つも、見ていない。城のどこにも、なかった。俺は、兄が、外で女にでも貢いだのだと……そう、思い込んでいた。兄を、恥じていた」
「違います」わたしは、はっきりと言った。「お兄様は、浪費なさっていません。少なくとも、この帳簿の宝石や酒は、この城に、来ていない。金だけが、出ていって、品は、どこにもない。これは――お金を、無理やり、外へ流し出させられた跡です。浪費したのではなく、浪費したことに、させられた」
「誰が、そんなことを」
「まだ、断定はできません」わたしは、慎重に言葉を選んだ。「けれど、この時期のすぐあとに、お兄様は、あの、返せない借金を、背負っています。まず、あらぬ浪費で、蓄えを空にされ、懐が空いたところへ、優しい顔で、金を貸す者が現れる。……順番が、できすぎています」
「順番、とは」
「飢えさせてから、パンを差し出すのと、同じです」わたしは言った。「はじめから、その人を飢えさせておく。自分の力では、どうにもならないところまで、追い込む。そこへ、恵み深い顔で、手を伸ばす。溺れている者は、藁でも掴む。掴んだ藁が、実は、首に巻きつく縄でも。……お兄様が掴んだ借金は、たぶん、そういう縄でした」
言いながら、わたしは、幽霊の名義を仕組んだ者と、あとから金を貸した者が、同じ影から伸びた、二本の手ではないかと、思い始めていた。片方の手で財布を空にし、もう片方の手で、縄を差し出す。それができる者は、この辺境の内側の事情を、よく知っている者だ。
ヴァレンの拳が、卓の上で、固く握られた。だが、今度は、その怒りは、兄には向いていなかった。
「兄は、俺に、何も言わなかった」ヴァレンの声が、震えた。「苦しかったろうに。誰かに、脅されていたのかもしれん。それを、一人で、抱えて。……俺は、その兄を、放蕩者だと、恥じていた。墓の前でさえ、詫びもせずに」
わたしは、何も言わなかった。ここで、慰めの言葉を並べるのは、違う気がした。ただ、兄の名の記された頁を、そっと、指でならした。
「お兄様の名は」わたしは、静かに言った。「わたしが、必ず、数字で、清めます。放蕩の当主ではなく、領を守ろうとして、罠にはめられた人だった、と。それを証すのが、いま、この帳簿を読めるわたしの、できることです」
ヴァレンは、うつむいたまま、しばらく動かなかった。それから、ぽつりと、言った。
「……あんたが、来てくれて、よかった。兄は、あんたに、読まれるのを、待っていたのかもしれん」
その言葉は、飾りがなくて、だからこそ、胸の奥に、じんと沁みた。誰にも読まれずに、汚名だけを着せられていた記録。それを、ようやく、正しく読む者が、この家に来た。数字は、何年でも、待つ。読まれる日を、静かに、待ち続ける。
わたしが、その静かな余韻に浸っていたとき、扉が、慌ただしく叩かれた。ギースが、一通の封書を手に、駆け込んでくる。
「奥方様。王都から、急ぎの報せが」
差出人の名を見て、わたしは、息を、のんだ。
去ってきたはずの、あの家。テオドール伯爵家。父の、筆跡だった。




