第15話 古いものから、傷む前に
全70話完結予定です。毎日5話、7:10/12:10/17:10/20:10/22:10に更新します。
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翌朝、わたしは、辺境の蔵を、すべて開けさせた。
冬を越せるかどうか。それを確かめるには、頭の中の見当ではなく、蔵の中身を、この目で、一つずつ数えるしかない。ギースと、数人の使用人を連れて、わたしは、冷たい石造りの蔵に、足を踏み入れた。
「記録では」わたしは、古い在庫帳を手に、読み上げた。「麦が、大樽で十二。塩漬けの肉が、八十塊。芋が、三十俵。豆が、二十袋。……このとおりに、あるか、数えます」
「奥方様、そこまでなさらずとも」ギースが、恐縮したように言った。「帳面にそう書いてあるなら、そのとおりに、あるはずで」
「帳面と、蔵の中身が、いつも同じとは限りません」わたしは、静かに答えた。「書いた人が正直でも、書き忘れや、数え間違いは、起こります。命がかかっているときほど、見当ではなく、実物を数えるんです」
数え始めて、すぐに、わたしの手は止まった。
麦の大樽は、十二では、なかった。九つしか、ない。塩漬けの肉は、記録より、二十塊も少ない。芋は、数だけは合っていたが――近づくと、饐えた匂いがした。俵の下のほうが、湿気で、すでに傷み始めていた。
「……足りません」わたしは、在庫帳を閉じた。「記録より、ずっと。しかも、残っているものの一部も、もう、傷みかけています」
蔵に、重い沈黙が落ちた。ギースの顔が、白くなった。
「なぜ、こんなことに。誰かが、盗んだのでしょうか」
「盗みでは、ないと思います」わたしは、樽の並びを見渡した。「もし着服なら、傷んだ芋を、わざわざ残しておく理由がない。これは、盗みではなく――放置です。長いあいだ、誰も、蔵をきちんと数えていなかった。だから、いつ、何が、どれだけ傷んだのかも、わからなくなっていた」
わたしは、いちばん奥の、古い樽に手を触れた。埃の積もり方が、ここだけ、何年も動かされていないことを語っていた。
「古いものを、奥にしまい込んで、忘れる。新しいものを、手前に置いて、そればかり使う。奥のものは、誰にも食べられないまま、静かに傷んでいく。――この蔵は、ずっと、そうやって、食べ物を、腐らせてきたんです」
言いながら、胸の奥が、ひやりとした。これは、ただの不注意では、片づかない。何年も、誰も蔵を正しく数えなかった。その、記録と実物のずれの根が、思ったより、深いところまで、伸びている気がした。
けれど、いまは、それを追う前に、やるべきことがある。この冬を、越すことだ。
「泣いている暇は、ありません」わたしは、顔を上げた。「あるものを、無駄なく食べきる仕組みを、今すぐ作ります。ギース、紙と、人手を」
わたしは、蔵の中のすべての食料を、傷みの近い順に、並べ替えさせた。いちばん先に傷むものを、いちばん手前に。それから、順に、奥へ。
「配るときは、必ず、手前から」わたしは、使用人たちに告げた。「新しいものが入っても、手前には置かない。奥へ回す。いつも、いちばん古いものから、傷む前に、食べきる。ただ、それだけです。順番を、決めるだけで、腐って捨てるものが、ずっと減ります」
「順番を、決めるだけで……」ギースが、目を丸くした。「そんな簡単なことで、飢えが防げると」
「飢えの多くは、物がないからではなく、あるのに、うまく回せないから起こります」わたしは言った。「この蔵には、まだ、傷む前のものが、たくさんあります。それを、腐らせずに、食べきれば。足りない分は、鉱山が動き出せば、そのお金で、外から買えます。だから――間に合わせられます。ぎりぎり、間に合う」
「それに」わたしは、傷みかけた芋の俵を指した。「この芋も、まだ、捨てるには早い。傷んだところを切り落とせば、芯は、まだ食べられます。それを煮て、日保ちのするものに変えれば、もうしばらく、もちます。傷む前に食べる。傷みかけたら、形を変えて、もたせる。捨てるのは、本当に、どうしようもなくなってから。それが、最後です」
「奥方様は」ギースが、感じ入ったように言った。「もったいない、を、数字でなさる」
「もったいない、は、優しさではなく、算段です」わたしは、少しだけ笑った。「一つ捨てれば、一人分の冬が、短くなる。ここでは、その一つが、命の重さになります。だから、数えて、無駄を出さない。それが、いちばん確かな、優しさの形です」
わたしは、配分の表を作った。何を、いつ、どれだけ配るか。傷みかけた芋は、すぐに、皆で分けて食べる。日保ちのする麦と豆は、冬の後半に回す。一日ごとの、食べる量まで、細かく決めた。
その表が仕上がると、集まっていた領民たちの顔から、少しずつ、こわばりが取れていった。飢えるかもしれない、という、名前のない不安。それが、数字で、一つずつ、期限と量に置き換えられていく。見えない恐怖より、見える不足のほうが、人は、ずっと落ち着いて、向き合える。
「これで、この冬は、越せます」わたしは、言い切った。「ひもじい思いは、少しさせるかもしれません。でも、誰も、飢え死には、させません。それだけは、数字が、約束しています」
領民の一人が、ふいに、深く頭を下げた。それにつられて、次々と、頭が下がっていく。わたしは、少し慌てて、それを止めようとした。頭を下げられるほどの、大それたことを、したつもりは、なかったから。
その夜、片づけを終えたわたしは、蔵から持ち出した、古い在庫帳を、もう一度、開いた。記録と実物のずれ。それが、いつから始まったのかを、確かめたかった。
頁を、一年、また一年と、遡っていく。ずれは、ずっと昔からあったわけではなかった。ある年を境に、急に、記録が乱れ始めていた。数字が、飛び、抜け、つじつまが合わなくなる。
その年の当主の名を、わたしは、指でたどった。ヴァレンの、亡くなった兄。
辺境が、本当に傾き始めた、その最初の一頁の匂いを、わたしは、確かに、嗅ぎ取っていた。




