第11話 やわらかい罠
全70話完結予定です。毎日5話、7:10/12:10/17:10/20:10/22:10に更新します。
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応接の間に通されたハルバ商会の使者は、恰幅のいい中年の男だった。名をボルツと名乗り、深々と頭を下げた所作は、非の打ちどころがない。だが、その丁寧さには、こちらを値踏みする冷たさが、薄く貼りついていた。
「このたびは、辺境伯様のご領地が、たいそうお困りと伺いまして」ボルツは、湯気の立つ茶に口もつけず、切り出した。「手前どもハルバ商会、長年のよしみもございます。ぜひ、お力になりたく参上いたしました」
よしみ。その言葉に、隣のヴァレンの眉が、わずかに動いた。そのよしみとやらが、この土地をここまで痩せさせたのだ。わたしは膝の上で手を重ね、静かに続きを待った。
「単刀直入に申し上げます」ボルツは、一枚の証書を、恭しく卓に置いた。「先代がお借りになった債務。あれの、借り換えをご提案いたします。今の利では、ご返済もさぞお苦しいでしょう。手前どもの新しい証文なら、利は、今の半分。月々のご負担も、ぐっと軽くなります」
利が、半分。数字だけを聞けば、確かに、溺れる者に差し伸べられた手に見えた。ヴァレンが、こちらをうかがう。わたしは、証書を手に取った。
紙は上等だった。文字も美しい。けれど、美しい紙ほど、隅に小さな字が並ぶものだと、わたしは知っている。
「拝見します」
わたしは、条文を一つずつ、指でたどった。利は、確かに半分。ここまでは、書いてある通り。だが、その先。返済が三月滞った場合の条項。据置期間が過ぎたあとの利の計算方法。担保の差し替えに関する、ほんの数行。
指が、ある一文で止まった。
読み返す。もう一度。間違いではなかった。
「ボルツさん」わたしは、顔を上げた。「一つ、確かめさせてください。この借り換えでは、据置期間の三年が過ぎたあと、利は、元本にではなく、その時点の残高全体にかかる。そういう約定ですね」
ボルツの表情は、変わらなかった。「さようでございます。ごく、一般的な取り決めで」
「一般的、ですか」わたしは、卓に指を置いた。「では、計算してみましょう。最初の三年、確かに月々は軽い。皆さん、ほっとされる。けれど四年目から、利は残高全体に乗る。しかもこの証文、その時点で担保を、鉱山と関所から――領地そのものに、差し替えると書いてあります。この一行で」
わたしは、その数行を、指の腹で軽く叩いた。
「五年後、この“軽くなった借金”は、いまの倍に膨れます。そして、返せなくなったとき、差し出すのは、辺境の土地そのものです。楽にする証文ではありません。楽にすると思わせて、深いところへ引き込む証文です」
「具体的に、申しましょうか」わたしは、卓上の砂糖壺を、そっと引き寄せた。「たとえば、いま百の借金があるとします。この証文で、三年は、月に一つ返せばいい。楽です。誰でも、これなら払える。けれど四年目、据置の分がまとめて残高に足され、利はその全部にかかる。返す額は、月に一つでは、もう、追いつかない。利のほうが、大きくなるからです」
わたしは、砂糖の粒を一つ、二つと、卓に並べていった。粒は、みるみる増えていく。
「利が利を生み、増えた分に、また利が乗る。これを、雪だるまと言います。転がすほど、大きくなる。止まったときには、もう、抱えきれない。――そういう仕組みを、わざわざ、選んで書く商人がいるでしょうか。返してほしいなら、返せる証文を書くはずです」
砂糖の山を、わたしは指で、そっと崩した。
部屋が、静かになった。ヴァレンが、息を呑む気配がした。
ボルツは、しばらく、わたしを見ていた。慇懃な笑みは崩れない。ただ、その目の奥だけが、はじめてこちらを、人として見た気がした。
「……奥方様は、数字がお読みになる」
「読むだけです」わたしは、証書を、丁重に卓へ戻した。「読める者が、たまたま、この家にいた。それだけのことです。ご提案は、ありがたく。けれど、お断りいたします。今のままの借金のほうが、まだ、正直ですから」
ボルツは、証書を懐にしまうと、また深く頭を下げた。来たときと同じ、非の打ちどころのない所作で。
「では、また、日を改めまして」
その「また」に、わたしは、はっきりと敵の意思を聞いた。今日は退く。だが、諦めはしない。柔らかい手が駄目なら、次は、別の手で来る。そういう含みだった。
馬車が去ったあと、ヴァレンが、長く息を吐いた。
「あんた、あれを、その場で読んだのか。あの、細かい字を」
「慣れです」わたしは、正直に答えた。「昔から、うちの家では、都合の悪いことほど、小さな字で書かれていましたから。小さな字を先に読む癖が、ついただけです」
言ってから、少しだけ、苦いものが胸をかすめた。あの家で身につけた癖が、こんなところで役に立つとは。
「だが」ヴァレンが、腕を組んだ。「借り換えを蹴った。ということは、今の借金は、今の利のまま、期限が来る。返す当ては」
「あります」わたしは、まだ何もないのに、そう言った。言ってしまわなければ、始まらないから。「向こうが差し出した手を蹴ったなら、こちらは、自分の足で立つ道を、探すだけです。この辺境には、まだ、使われていない稼ぐ力が、眠っているはずです」
そのとき、控えていたギースが、そっと進み出た。片付けかけた茶器を手にしたまま、案じ顔で口を開く。
「奥方様。差し出がましいようですが……あのボルツという男、帰り際の目つき。あれは、獲物を一度手放した狩人の目でございました。次は、もっと厄介な形で参りましょう」
「ええ」わたしは頷いた。「わかっています。だから、次に来られる前に、こちらの足腰を、少しでも強くしておかないと」
「足腰、と申しますと」
「稼ぎです」わたしは、卓の地図を、指で引き寄せた。「借金を返す当てがあれば、向こうの証文は、ただの紙切れになる。急ぎましょう、ギース。この領の、眠っている財産を、一つずつ起こします」
わたしの頭には、もう、一つの場所が浮かんでいた。地図の端、山あいに小さく記された、休眠中の鉱山の印。長らく閉ざされ、採算が合わないと放り出された、あの場所。誰もが諦めた印の上に、わたしは、まだ読まれていない数字の気配を、感じていた。
諦められた場所ほど、正しく数えられていないことが多い。それが、これまで帳簿を読んできて、わたしの得た、数少ない確信の一つだった。




