第4話「文字と言語」
夜になると、屋敷が静かになった。
使用人たちが引き上げ、廊下の足音が消える。ランプの火が落とされ、大広間の奥の方から時計の音だけが聞こえてくる。
その時間を、大地は待っていた。
寝台の上で身を起こし、枕の下から取り出す。葬儀の翌日、屋敷の廊下を歩いているときに見つけたものだ。飾り棚に並んでいた薄い本——絵本だろうか。子供向けの本なら文字と絵が対応しているはずだと思い、誰にも見られないよう部屋に持ち込んでいた。
ランプの火を最小限に絞り、ページを開く。
(……やはり絵本だ)
動物の絵。その下に短い文字列。丸みのある字体で、一ページに数行しかない。
大地はその文字を指でなぞった。
(この形が、あの音に対応する)
耳で拾った音と、目で見た文字を照合していく。数日分の記憶を引っ張り出しながら、一文字ずつ当てはめていく。完全にはわからない。しかし輪郭が、少しずつ見えてくる。
(アルファベット系ではないな。表音文字か……いや、一部は表意か)
前世で学んだ言語学の知識が、ここで役に立つとは思わなかった。
夜が更けるまで、大地はページをめくり続けた。
◇
昼間は使用人たちを観察した。
この屋敷には十数人の使用人がいるらしかった。大地の世話を主に担当しているのは、年かさの女性——ノラ、と呼ばれている——と、馬車に乗っていた女性のメイだ。どちらも目が赤い日が続いていたが、少しずつ日常の顔に戻りつつある。
大地は二人を観察しながら、少しずつ言葉を覚えていった。
方法は単純だ。何かを指差す。首を傾げてみせる。すると大抵、ノラかメイが名前を教えてくれた。
窓を指差す。「——マド」
テーブルを指差す。「——テーブル」
自分の手を指差す。「——テ」
(音が近い単語がいくつかある。前世の日本語と借用語が混じっているのか、あるいは偶然か)
いずれにせよ、手がかりになる。
ノラは最初、大地が何かを指差すたびに目を潤ませた。回復の兆しだと思っているらしい。それでいい。記憶が少しずつ戻ってきている子供——その印象を維持できれば、言語習得の速さへの疑問も薄れる。
しかし大地は計算を誤っていた。
◇
三日目の午後のことだった。
廊下を歩いていると、角の向こうから声が聞こえてきた。ノラとメイが話している。
足を止めた。
聞き取れる単語が増えてきた今、断片が拾える。
「——オパリア様——最近——」
「——そうですね——なんというか——」
「——以前は——もっと——」
(何だ)
大地は壁に背をつけ、息を殺した。
「——泣いたり——笑ったり——今は——」
「——怖いくらい——静かで——」
「——でも——記憶が——だから——」
「——そうかもしれませんが——目が——」
(目?)
「——子供の目じゃない——気がして——」
沈黙。
「——言いすぎですよ——ただ——ショックを受けているだけで——」
「——ええ、きっとそうですね——」
足音が遠ざかっていった。
大地はしばらくそのまま動かなかった。
(子供の目じゃない、か)
三十四年間で身についた目だ。それを五歳の身体に入れれば、当然そうなる。予想していたことだ。
(想定の範囲内だが、近いうちに対策を検討しないとな)
そう思いながら——少し、立ち止まった。
以前のオパリアは、感情を素直に表す子だったらしい。泣いたり、笑ったり。普通の、幼児らしい子供だったのだ。
その子の場所に、今の大地がいる。
(……使用人たちは、その子のことが好きだったんだな)
実務的に考えれば、記憶喪失の演技は継続すべきだ。整合性は保てている。問題はない。
ただ。
ノラが大地に言葉を教えるとき、いつも少しだけ目を細めていることに気づいていた。まるで、以前の子供の面影を探しているような——そんな目だった。
(……後で整理する)
今は言語の習得だ。
◇
その夜、大地はまた本を開いた。
今日で五冊目だ。絵本から始めて、子供向けの読み物へ。文字の解読速度が、日ごとに上がっている。
(このペースなら、来月には基本的な会話ができるようになる)
計算は合っている。声を出さないという方針は維持しながら、聞き取りと読解を優先する。
本のページをめくりながら、大地は廊下の向こうに意識を向けた。
隣の部屋——レオンの部屋だ。
灯りがついている。この時間に起きているらしい。
(あの子も、眠れないのか)
弟、ということになっている。年はいくつだろう。三歳か四歳か。両親を亡くしたばかりの幼児が、夜中に一人で起きている。
(……関係ない)
ページをめくった。
しかし——灯りはしばらく消えなかった。大地も、本を読みながらそれを気にしていた。
やがて灯りが消えた。
大地もランプを落とした。
目を閉じる前に、今日覚えた単語を頭の中で並べた。百八十七個。明日は二百を超える。
(「目が違う」か)
暗闇の中で、ノラの言葉が浮かんだ。
消そうとして——消えなかった。
◇
姉が、おかしい。
レオン・イルス・ヴァルテールは、食堂の椅子に座りながらそう思っていた。
向かいの席に、オパリアがいる。行儀よく背筋を伸ばし、スプーンを正確な角度で持ち、スープを静かに飲んでいる。こぼさない。音を立てない。ただ黙々と、食事を進めている。
(……五歳の子供の所作じゃない)
レオンは自分のスプーンを置いた。
使用人のノラが「よくできました」という顔でこちらを見ている。記憶が戻ってきた証拠だと思っているらしい。
(違う)
以前のオパリアを、レオンはよく知っている。食事のたびに何かをこぼし、気に入らないものがあれば顔をしかめ、レオンと目が合えばにっと笑う——そういう子だった。声が大きくて、泣くときは本気で泣いて、怒るときは頬を膨らませた。
今の姉は、静かすぎる。
食事が終わった。オパリアは椅子から降り、使用人に軽く頭を下げて食堂を出ていく。子供が「軽く頭を下げる」という動作を自然にする。その背中を、レオンはじっと見ていた。
(やっぱりおかしい)
◇
数日後、廊下ですれ違った。
屋敷の東翼——書庫に続く廊下だ。オパリアが歩いてくる。手に本を抱えている。厚い本だ。絵本ではない。
レオンは足を止めた。
オパリアもレオンに気づき、立ち止まった。
目が合う。
(……オパリアじゃない)
姉の目は、いつも同じだった。静かで、深くて、何かを計算しているような——感情の揺れが表面に出てこない。子供の目ではない。それはレオンにもわかった。
オパリアは小さく頷いた。挨拶の代わりのような、ごく自然な動作で。それからまた歩き出した。
レオンはその場に立ったまま、遠ざかる背中を見た。
(声が出ないのは本当だろう。だが——)
手に抱えていた本のタイトルが、一瞬見えた。
領地経営に関する書物だった。
(一体誰なんだ?)
揉め事を聞いたのは、その翌週だった。
応接室の前を通りかかったとき、中から声が聞こえてきた。
「——後見人の件は——」
バルトゥスの声だ。滑らかで、押し付けがましくない。聞きやすい声だが、レオンはその声が好きではなかった。理由はうまく言えない。ただ、何かが引っかかる。
「——時期尚早では——」
アドリアンが答える。こちらは硬い声だ。
「——お気持ちはわかりますが——ヴァルテール家の現状を考えれば——」
「——オパリアは回復している——必要ない——」
「——しかし五歳の令嬢に領地を——」
「——私がいる——」
短い沈黙。
「——アドリアン殿——あなた一人では——」
「——十分だ——」
それきり声が途絶えた。
レオンは廊下を離れた。
(ここは原作通りだ)
それはわかる。問題は、バルトゥスだ。あの男は何を望んでいるのか。後見人の座、それだけか。
(オパリアだけ違う――)
根拠はない。ただの直感だ。しかしレオンは自分の直感を信じていた。
(いや、違うのは私もか…)
◇
その夜、眠れなかった。
天井を見ながら、考えていた。
姉のことを——正確には、姉の身体の中にいる「何か」のことを。
両親が死んで、姉が変わった。記憶を失い、声が出なくなった。それは事実だ。しかし記憶を失った子供が、領地経営の書物を読むか?五歳児が食事中に背筋を伸ばし続けるか?廊下ですれ違うとき、頭を下げるか?
(オパリアじゃない)
得体の知れない存在に恐怖を感じた。
(目的が分からない)
毎晩遅くまで本を読んでいる。あの熱心さは、何かを成し遂げようとしている者のそれだ。
(何者なんだ)
寝台の上で膝を抱えた。
怖い。でも——放っておけない気もする。
あの書庫の本。領地経営。声が出なくても目が動く。姉の身体の中で、何かが静かに動いている。
◇
深夜だった。
眠れないまま水を飲みに起きたレオンは、廊下に灯りを見た。
書庫の方向だ。
(まただ…)
ここ数週間、深夜に書庫の灯りがついていることが何度かあった。使用人ではない。使用人が夜中に書庫を使う事は無い。
足音を忍ばせて近づいた。
扉が少し開いている。
隙間から、中を覗く。
小さな影があった。
棚と棚の間の床に座り込み、膝の上に分厚い本を開いている。ランプを傍に置いて、ページを指でなぞりながら読んでいる。
五歳の子供が、深夜に一人で、法律書を読んでいる。
(……やっぱりそうか)
レオンは扉の前で動けなかった。
中の影は振り返らない。ただ静かに、ページをめくる。一枚、また一枚。
その集中の仕方が——子供ではなかった。
(確かめるべきか?)
足が、前に出なかった。
今ではない、とレオンは思った。まだわからないことが多すぎる。あの「何か」が何を考えているのか、わからないうちに動くのは得策ではない。
(もう少し、見ていよう)
そっと廊下を引き返そうとした。
扉に触れてしまった。かすかな音が、静寂に響いた。
(しまった!)
姉の姿をした少女がこちらへ目を向ける。
――目が合った。
少女は口を開いた。
「覗きとはいい趣味だな」
少女の姿に不釣り合いな落ち着いた口調。
そして――前世で聞き慣れていた”日本語”。
【第5話へ続く】




