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「亡き少女の身体を借りて」―少女の魂を取り戻すまで―  作者: 島ながぁ
第1章「覚醒と偽装」

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第3話「葬儀」

 花の匂いがした。


 白い花だった。大地の知らない種類だが、甘くなく、静かな香りがする。祭壇に積まれ、棺の周りを囲んでいる。


 大広間が、人で埋まっていた。


 黒い服の人々。頭を垂れている者、目を赤くしている者、硬い表情のまま立っている者。声はない。時折、布で口元を押さえる音がするだけだ。


 大地は最前列の席に座っていた。


 両側を使用人に挟まれ、膝の上に小さな手を置いて、ただ正面を向いている。棺が二つ。並んでいる。


 (……知らない人たちだ)


 わかっていた。わかっていても、目を逸らせなかった。


 あの夜、馬車の中で微笑んだ女性。その人が、あの棺の中にいる。最後の言葉の意味を、大地はまだ知らない。


 (言語を早く覚えなければ)


 実務的な思考に逃げ込もうとして——できなかった。


 (……俺が、この子の場所にいる)


 誰かが祭壇の前で何かを読み上げ始めた。単調な、低い声。言葉はわからない。しかし音の流れから、祈りの言葉だとわかった。


 少しずつ、単語の輪郭が見えてきている。この数日で耳に入り続けた言語が、ほんの少しだけ形を持ち始めていた。


 (……「ヴァルテール」。「安らかに」——おそらく)


 確証はない。しかし繰り返される音の中に、意味の欠片が見え隠れする。


 式の途中で、人が動く気配がした。


 席が並ぶ中に、遅れて入ってきた者がいる。使用人が慌てて場所を作る様子が、視界の端に映った。


 (誰だ?)


 目を動かした。直接振り向くことはしない。視線だけで追う。


 男だった。


 四十代半ばだろうか。体格は普通だ。顔立ちも、よく言えば端正、悪く言えば印象に残らない。黒い礼装を着こなし、周囲への会釈も自然で、一見すれば誠実そうな人物にしか見えない。


 ただ——目が、違った。


 弔問客の列に加わりながら、その目だけが動いていた。棺を見ない。祭壇を見ない。室内を、人を、そして——こちらを、見ていた。


 大地と目が合った。


 男は柔らかく微笑んだ。だが少女へ向ける目に違和感を感じた。


 (……読めないな、何だこの目線は?)


 大地はすぐに視線を前に戻した。


 (名前は——「バルトゥス」。おそらく)


 この数日で聞き取れるようになった単語のひとつだった。使用人たちが話す中に、何度か出てきた名だ。声のトーンから、あまり好意的でない文脈で使われていることは読み取れた。


  (なるほど)


 葬儀の場に遅刻してくる。しかし礼を失しない絶妙な遅さだ。注目を集めながらも、非難されない。


 計算している。


 式が進む中、大地は静かに前を向き続けた。


 棺を見ている——フリをする。視野と耳に意識を向け、室内の情報を集めている。誰がどこにいるか。誰が誰を見ているか。バルトゥスが動くたびに、周囲の反応がどう変わるか。


バルトゥスは時折こちらへ目線を向けている。


 (この子を見ている?)


 向かって左手の列に、金色の頭が見えた。背筋を伸ばし、正面を向いている。横顔に、疲弊の色がある。


 (ろくに眠れていないようだな、無理もないか)


 誰かが泣き始めた。使用人の誰かだろうか。すすり泣く声が広間に広がる。


 その瞬間だった。


 視界の端に、何かがチラついた。


 棺の脇に、白銀の影が立っていた。


 子供の形をしている。年のころ、五歳ほど。白い服。うつむいて、動かない。


 (いつの間に?)


 大地は視線を前に固定したまま、瞬きをした。


 影は消えない。


 棺の脇に立ったまま、じっとそこにある。うつむいた顔が、少しだけ動いた。こちらを向こうとしているような。


 (周りには見えていないのか)


 大地は視線を動かさなかった。


胸の奥が痛む


 (身体を奪ったという罪悪感が魅せる幻か)


隣の使用人が、大地の手に触れた。小さな白いハンカチを握らせようとしている。


 (泣いていると思われているのか)


 大地は素直にハンカチを受け取り、目元に当てた。


影はいつの間にか消えていた。


 広間が静かになった。


 弔問客たちが少しずつ退出し、大広間には数人しか残っていない。使用人が後片付けを始めている。


 「——オパリア」


 声がした。


 知っている音だった。この数日で最も多く耳にした声だ。大地は顔を上げた。


 アドリアンが立っていた。


 使用人たちに何かを言い、部屋の外へ促している。しばらくして、二人だけになった。


 アドリアンが向かいの椅子に座った。大地と目の高さを合わせるように、少し前に身を傾ける。


 何かを言った。


 (……「大丈夫」か)


 おそらく。頻度から言えば、そういう意味だと思う。


 大地はただ男の顔を見た。


 アドリアンはしばらく黙っていた。何かを考えているような、あるいは何を言えばいいかわからないような——その沈黙は、空虚ではなかった。


 やがて男は、静かに言った。


 大地には意味がわからなかった。しかし聞こえた単語があった。


 「——妹——」


 それだけが、聞き取れた。


 アドリアンの目が、少し遠くなった。この場所ではない何かを見ているような目だった。


 (妹……母親のこと、か)


 金色の髪。棺の中の女性と、目の前の男は、確かに似ていた。


 沈黙が続いた。


 大地は何も言わなかった。


 アドリアンはしばらくして立ち上がり、軽く頭を下げた。出口へ向かう前に、一度だけ振り返った。


 目が合った。


 何か言いたそうな顔だった。しかし言葉にはしなかった。そのまま扉の向こうへ消えた。


 一人になった。


 大広間は静かだった。白い花の匂いだけが残っている。


 大地は棺を見た。二つの、並んだ棺を。


 (俺は、何者でもなかった人間だ)


 三十四年間、普通に生きた。普通に働いた。だが、自分の為にしか生きれなかった人間だ。


 なのに今、ここにいる。


 この子の席に座って、この子の両親の葬儀に出て、この子の名前で呼ばれている。


 (……返すべきだな)


 返さなければ。俺はここにいるべきではない。少女の身体を、少女の人生を、必ず返す。


 しかし。


 最後の言葉の意味を、まだ知らない。


 あの女性が笑いながら言った言葉の意味を——知らないまま、終わらせることになるのかもしれない。


 (……覚えておこう)


 言葉の音だけを、記憶の中に仕舞った。


 いつかわかる日が来るかもしれない。来ないかもしれない。それでも、忘れないでいることだけはできる。


 花の匂いが、少し強くなった気がした。




【第4話へ続く】

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