第2話「オパリア」
意識が、滲むように戻ってきた。
揺れている。
馬車ではない。もっとゆっくりとした、人の歩みに合わせた揺れだ。抱きかかえられているらしい。頬に触れるのは硬い布——制服か何かだろうか。男性の使用人に運ばれているようだった。
(生きているのか、俺は)
目は開けなかった。
本能的な判断だった。今ここで目を開けて「ここはどこですか」などと言えば、言語が通じないことがすぐに露呈する。声を発すれば、何かがおかしいと気づかれるかもしれない。
(情報が足りないな…まだ動くべきじゃない)
瞼を閉じたまま、感覚だけを研ぎ澄ます。
石畳を踏む革靴の音が耳に伝わってくる——屋外だ。夜の空気。虫の音。遠くで犬が吠えている。
足音が変わった。石畳から、木の床へ。屋内に入ったらしい。複数の足音。声がする。聞き慣れない言語。しかし音の数、距離感、声の高低から——多くの使用人が集まっていること、動揺していることは読み取れた。
(事件が起きた直後、か)
どこかの部屋に入った気配がして、大地は意識を集中させた。
横たえられる。柔らかい。質の良いベッドだ。
しばらく、人の出入りが続いた。
足音、衣擦れ、水を運ぶ音。誰かが近くに座った気配。ランプの匂い。
それからまた、足音。今度は違う種類——革底の、落ち着いた歩み。立ち止まる。
(男…年配だな)
手が触れた。小さな手首を取られ、脈を確かめているらしい。まぶたを指で開けられそうになった瞬間、大地は反射的に身を固めそうになってをこらえた。
(医者か…)
瞼が開かれる。光が眩しかった。視界の端に、白髪の老人の顔。何かを言っている。こちらの目の焦点を確認しているようだった。
(少し誤魔化すか…)
大地は意図的に焦点を外した。虚ろな目を老人へ向ける。怯えでも茫然でもなく、ただ何も映していないような——空白の表情。
老人が何かを言った。使用人たちがざわめく。
(周囲の反応から見ておそらく「命に別状は無い」と言ったのだろう。こちらの反応に対しては「ショックによるもの」とでも言ったか?)
当たっているかどうかはわからない。しかし使用人たちの声のトーンが少し落ち着いたのは確かだった。
老人がまた何か言い、立ち上がった。部屋の外へ出て行く気配。使用人の一人が後を追う。
残った使用人が二人。ベッドの傍に控えている。
(分からないことが多すぎるな)
瞼を薄く開けたまま、大地は二人を見た。年かさの女性と、若い女性。どちらも目が赤い。泣いていたのか、今も泣きそうなのか。
二人は小声で話していた。
聞き取れる言葉は一つもない。しかし——老人が出て行った後も、二人の視線はちらちらとこちらへ向く。心配している、ということだけはわかった。
(この使用人たちは、——この子を、案じているのか…)
胸の奥に、奇妙な感覚があった。
自分に向けられた感情ではない。この身体の持ち主へ向けられた感情だ。
(後で整理するか)
今は情報収集だ。
廊下から一際大きな足音が聞こえてくる。
扉が一気に開いた。
それまでの静かな出入りとは全く違う、勢いのある音だった。
使用人たちが息を飲む気配。大地は瞼を閉じた。
足音が近づいてくる。速い。ベッドの脇で止まった。
「——————!」
低い男の声。絞り出すような。
何かを言っている。繰り返している。同じ言葉を、何度も。
(この声は……)
大地はそっと、薄く目を開けた。
男がいた。
四十前後だろうか。金髪、柔らかい印象の整った顔立ちだが、今はその顔から血の気が失せていた。ベッドの縁を両手で掴み、こちらを見ている。目が赤い。息が乱れている。明らかに、走ってきた。
「——————」
また同じ言葉。
大地には意味がわからない。だが——この男の表情は、読めた。
(……馬車の女性と少し似ているな)
狼狽。
知らせを受けて飛んできた。事態の深刻さに言葉を失っている。そんな所か。
(こいつは…身内か?)
直感だったが、確信に近かった。三十四年間、人を見てきた目がそう言っていた。
男はしばらくこちらを見つめてから、使用人の女性に向かって何かを言った。女性が答える。男がまた言葉を発する——今度は短く、硬い声だった。
大地は再び目を閉じた。
足音が遠ざかっていく。
部屋が静かになった。
男は出て行ったらしい。使用人も一人になった。規則的な気配だけが残っている。
(考えることが多いな)
静寂の中で、大地は思考を動かした。
まず確認すべきことは一つ——この身体の記憶だ。
(名前は、オパリア…だったか?使用人たちや先程の男がそう呼んでいた気がする。確証はない)
言語がわからない以上、推測の域を出ない。しかし他に手がかりがない。
記憶を探った。
(自分の記憶は、ある…生前よりも鮮明に思い出せる)
小学校の教室、満員の通勤電車、嫌味な上司の顔、好きだったケーキの味。電柱に止まっていた鳥の数まで思い出せる。三十四年分、何一つ欠けていない。
(鮮明すぎるな…)
少女の記憶は——
(……ないな)
改めて確認する。
五歳の子供であれば、両親の顔、屋敷の廊下、使い慣れた玩具——何か記憶に残っているはずだが…何一つ思い出せない。
(転生とは違うのか?それともこういう物なのか?)
大地は自問する。
(……わからないな)
言語がわからない。少女の記憶がない。身体は五歳の子供。わかったことは権力者の子供だという事だけ。
(取れる選択肢は一つだな)
記憶喪失。
衝撃的な出来事の後、記憶を失った——言語が通じない、反応がおかしい、知っているはずのことを知らない、違和感は持たれるだろうが押し通せる筈。
声については——
(言語が分からない以上、しばらく出さない方がいいな)
声を出せば、この身体の声と自分の「感覚」のずれが出る可能性がある。子供の声帯でどう話せばいいかも、まだわからない。記憶と同様に、衝撃による影響だとでも思わせておけばいいだろう。
(当面の方針は決定だな)
記憶喪失を装う。声は出さない。観察を続ける。言語を覚える。
それだけだ。
ベッドの上で、大地は静かに目を閉じた。
柔らかい枕の感触。ランプの温かい光。遠くで誰かが泣いている声。
(……まだ、終わっていないな)
瞼の裏で少女の顔が浮かんだ。怯えきった表情。消えかけながら泣き叫んでいた姿。
あの子はどこへ行ったのか。
この身体の中にいるのか、それとも——
答えは、まだない。
【第3話へ続く】




